tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn65.国を守るということ 平和と沈黙(2022)

ロシアのウクライナ侵攻を受け、日本でも声高に言われるようなったのが、核兵器の共有と、防衛費(軍事費)倍増でしょう。とりわけ、従来の防衛費には収まらない敵基地攻撃能力(反撃能力)が話題になりました。

 

<敵基地攻撃能力(反撃能力)>

弾道ミサイルの発射基地など敵国の基地や拠点などを攻撃する装備能力

敵基地攻撃能力 - Wikipedia より)

これが、防衛に含まれるかどうかは賛否両論あります。その是非以前に、私には気になっていることがあります。そもそも、国を防衛する、国を守るとはどういうことなのでしょうか?

 

 

原爆から身を守る方法

内務省防空総本部の見解

あまり知られていませんが、原爆(新型爆弾)が投下されて数日後、その対応方法が内務省防空総本部で検討されています。

gendai.media

(以下、サイトより、文と画像を引用)

記事によると、広島に原爆が投下され、長崎に投下される前の8月8日時点で、新型爆弾の威力は強大であると認めながらも、心構えと準備があれば新型爆弾も「さほど怖れることはない」として、こんな話がありました。

*8月8日付 防空総本部 談話より
次の諸点に注意すれば被害を最小限度に止められるから各人は実行しなければならぬ

と命令に近い形で

・軍服程度の衣類を着用すれば、火傷の心配はない
・防空頭巾と手袋を着用すれば、手足を完全に火傷から保護できる

としました。「被害を最小限度」に止めるために着用せよというのです。

その後8月11日に「新型爆弾への心得」が発表されます。

*8月11日付「新型爆弾への心得」より
・破壊された建物から火を発することがあるから初期防火せよ
火傷を防ぐためには、白い下着類が有効である
この爆弾の火傷には、油類を塗るか、塩水で湿布すればよい

新型爆弾で破壊された建物の初期防火など、できるはずもありません。また、当初、軍服程度と言っていたのが「火傷を防ぐのに白い下着類が有効」と変えられ、火傷は避けられないと考えたのか「火傷には、油類を塗るか、塩水で湿布」でよいとされたのです。あまりにもでたらめ過ぎて、政府の公式発表として陳腐としか言いようがありません。

 

新聞報道の影響

こうした政府方針は、報道各社の論調にも影響を与えます。原爆投下の2~3日後までは「鬼畜米英の暴虐」と批判する記事も多かったのですが、徐々に原爆を軽く扱う記事が目立つようになっていきました。

 

そして、8月14日の新聞です。

新型爆弾の対処法を書いた記事

※画像は、日本政府は国民を守らない…「原爆は怖くない」ウソだらけの安全神話(大前 治)  より引用したものを一部加工)

赤枠部分にはこう書かれています。

「即ち、熱線の照射は多少継続時間があるから閃光を認めたら姿勢をできるだけ低くして体の露出部を布、着物で覆うか、或いは確実に壕に入ること、壕に入るひまがなかった時は丈夫な家屋、柱等なんでもよいからそのかげに入って遮蔽すること 白い着物は熱線から受ける火傷を確実に防ぐ」

 

広島の原爆からまだ10日も経たず、長崎でも多くの被爆者が生死の境にいる中で、この報道です。詳しい情報がまだ入っていなかったとしても、国民の犠牲を省みることなく戦意を鼓舞しようとする記事に驚かされます。結果、原爆被害が過小評価され、被爆実態を語りにくくさせた影響もありそうです。

 

前回の記事で、三好妙子さんが「被爆体験について」に書いた

戦争が、どんなに悲惨なものかこんな話が信じられない今の子供達に、どうしても、知って欲しい。

とした思いと、原爆投下間もない被害を隠す記事との落差。それに気づくと「どうしても、知って欲しい。」の思いがより切実に感じられます。

 

それにしても、どういう経緯で非現実的な「新型爆弾への心得」が発表されたのでしょうか。

 

戦時中の防空政策

防空法で定めたこと

実は、初期防火の徹底で空襲被害を最小限にとどめることが、当時の防空法に定められ、国民の義務となっていました。その具体的な方法を見てみます。

gendai.media

この記事の言葉を借りて、一言にするなら「逃げずに消火せよ」です。すぐには信じ難いですが、空襲の最中でも、逃げずに消火して被害を防げというのです。もちろん突然湧いた話ではなく、この考えは戦前から巧妙に、国民に刷り込まれてきました。

 

現代なら、「空襲は怖い」との考えは至極当然ですが、当時は公に空襲が怖いということすら口にできなかったようです。

「爆弾投下を見に駆け出しては駄目」

「空襲、空襲、さあ窓に目張りをしましょう。」

「爆弾は恐ろしいものではない」

「爆弾が落ちたら二度は落ちぬから、すぐに飛び出して防火にあたれ」

こうした呼びかけが、空襲を怖がってはいけない、まずは消火するべきだと思い込ませていったのでしょう。

 

防空法は度々改正され、その度、国民の義務が増えます。一方で爆弾の威力も増していきます。結果、焼夷弾の十分な知識も与えられぬまま、空襲時に初期消火を強いられることになりました。

焼夷弾の火に近づき、濡れた筵で消火する方法

※画像は、「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした(大前 治) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) より引用

発火した焼夷弾に1メートルまで近づいて、濡れた莚(むしろ)で覆う消火方法も紹介。猛烈な火炎に近づくのは自殺行為に近いが、これが政府公式の消火方法とされた。

後に、訓練に忠実に消火しようとした人々が劫火の犠牲となった。

とあります。政府の話を信じ、逃げたい思いを抑え込み、燃え上がる火に向かった人の無念を思うと、当時の政府の無責任さが際立ちます。

 

国民の退去は禁止

戦争の激化に伴い、防空法に限らず、国民の統制はさらに強くなります。

防空法 - Wikipedia によると、

それ(防空法)自体は直接に国民に退去禁止を命ずる規定ではない。しかし、これに基づいて1941年12月7日(太平洋戦争開戦の前日)に内務大臣が発した通牒「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」は、「退去ハ一般ニ行ハシメザルコト」と定めていたので、これにより国民は全面的に退去を禁止されることとなった

とあります。大臣によって法律を越えた権限が与えられたのです。そして、空襲があっても、逃げてはいけない。逃げれば処罰の対象とされました。

 

戦局が悪化した1943年10月31日には「退去の禁止または退去の命令」と改められ、その後、文部省の推奨による学童疎開が始まります。空襲の危険が迫る1944年の4月には「東京都国民学校3-6年生のうち20万人を近隣の県に疎開させ、生活費は1か月20円とし、半額を国庫負担とする。実施期間を1年とする。」( 疎開 - Wikipedia より引用)等、主要都市を中心に広がりを見せ、疎開児童総数は40万人以上になったそうです。

 

学童疎開は、子どもの命を救う面はあったものの、親と子の別居、疎開先で馴染めなずに過ごしたり、地元が空襲を受け帰る家を失ったり、家族全員が死亡し戦災孤児になることもありました。

戦時中の子どもたち イメージ

青森大空襲と防空法

こうした防空法の強化の下、戦局はさらに深刻化していきます。1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が始まって以降、中国や太平洋上の島を拠点にして、全国各地へと広がっていきました。沖縄を除く地方都市では疎開の対象にはならず、空襲があるたび、子どもを含んだ犠牲者が増えていきました。

(この項目では 青森大空襲 - Wikipedia を要約引用しています。)

 

青森大空襲までの経緯

1945年7月14日~15日、青函連絡船が空襲され、壊滅的な被害を受けました。

 

これにより危機感を募らせた青森市民は、郊外の山中や田園地帯に避難・疎開します。しかし、青森市は空襲時に市民の消火活動の停滞や戦意低下になると考えました。

このことを知った金井元彦青森県知事は、7月18日に「家をからつぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが防空法によつて処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」と新聞を通じて警告を出します。

青森市も、命令を徹底するため、一家全員で避難して家が無人になっている場合、7月28日までに帰らなければ、食糧や物資の配給を停止すると新聞を通じて発表しました。

当時は食料不足で、配給の停止は死活問題になるため、多くの市民が帰宅します。

 

7月27日深夜、B-29爆撃機青森市上空に飛来し、照明弾とともに6万枚程の爆撃予告と避難を呼びかける「警告」ビラを撒きます。しかし、憲兵隊や警察によって敵のビラを読むことも所持することも禁止されていた上、すぐに回収されたため、この情報は一部の市民を除き伝わりませんでした。

 

青森大空襲

7月28日22時10分に青森県地区に空襲警報が発令されます。硫黄島を離陸したB-29青森市に現れ、照明弾で市内を照らしたのち、22時37分に焼夷弾の投下を始め、23時48分まで続き、83000本もの焼夷弾が投下されました。7月29日0時22分、空襲警報は解除されます。死傷者は1767名。焼失家屋18045戸(市街地の88%)。罹災者は70166名に上りました。(諸説有り)

 

この時に使われたのは、黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾(M74)で、青森市がその実験場となり、米軍では「青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」との結論が出ています。

 

焼夷弾攻撃に対して、青森市民はバケツリレーをはじめとする消火活動を行いましたが、M74焼夷弾に用いられた黄燐は空気に触れると発火する性質を持っており、また、水をかけても飛散してしまうため効果はありませんでした。(従来型であっても大量に投下されたため、他都市同様、消火の効果はほとんど無かったとされる)また、急造の防空壕は全く役に立たず、防空壕での死者も多かったのです。消火活動が困難を極めたため避難を始めた市民もいたが、軍に消火活動に戻るよう指示される事例が見られたとされています。

 

国を守るということ

国は何を守ろうしたのか

ここまで、国が示した「新型爆弾の心得」、防空法政策、青森大空襲をとりあげてきましたが、大きな疑問「国は何を守ろうとしたのか」、「守るために何をしたか」が浮かび上がります。

 

空襲を恐れてはならぬと、身を守るより延焼の被害を抑えることを優先させました。

逃げる者には配給停止で脅して家に帰らせ、国が発する以外の情報には触れさせず、市民の懸命の消火活動も被害の縮小にはつながらず、急ごしらえの防空壕はほとんど役に立ちませんでした。

にもかかわらず、原爆の被害までひた隠し、国民が怖がることを避け、非現実的な心得を出しています。

 

国民の命や暮らしを守ろうとしたとは、とても言えそうにありません。

守ろうとしたのは国の体制だったのでしょうか。天皇制の維持という考えはあったと思いますが、無謀な作戦を強行し、国民が命を落とすことを省みることもなく、国の体制を守れると考えていたなら、極めて浅はかとしか言いようがありません。

 

去年の記事

ではこう書きました。

戦争が長引いた理由、敗戦を恐れた理由。

それは特権階級にある者たちの特権への執着と喪失の恐れでしょう。

今も考えは変わりません。

 

ただ、戦争の勝敗は既に明らかでした。国民の犠牲は積み重なるばかり。

にもかかわらず、特権への執着ができたのは何故でしょう。

 

今回、記事を書きながら行き着いた答えはこうです。

守ろうとしたのは国民の戦意。

国民が戦意を失わない限り、特権は維持され、国民を意のままに操れる。権力は単純にそう考えたのではないかと思うのです。戦意を高揚させ続けるために、多くのものを奪い、隠蔽し、欺き、犠牲にさせた気がします。

 

もちろん、国民が皆、戦意を持ち続けていたとは思えません。でも、たとえ見せかけの戦意であっても、他の選択肢が奪われ、そうするしか生きていけない状況に置かれていたと思えるのです。

 

今、国を守るとは

他の選択肢が奪われる状態ーー。

何だか戦前戦中に似た重々しさを感じる今です。

かつての戦意は、今の弔意に置き換えられるようにも思えます。

そして見せかけの弔意が国民の総意とされ、別の方向に持って行かれるのではないかという不安を感じます。

 

では本来、国を守るとは何でしょうか。

私論です。

民主主義の世にあって、国を守るとは国民主権を守ること。

あらためて、そうあるべきだと思いました。