tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn64.8月の原爆の日に思う 平和と沈黙(2022)

広島原爆の日のあいさつ

2022年8月6日、広島平和記念日での湯崎英彦広島知事のあいさつからの抜粋です。

全文はこちら

あの時、川土手で、真っ赤に燃え盛る空の下、中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」。その声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった。

抜粋部分は、9歳で被ばくした三好妙子(みよしたえこ)さんが1995年に記した「■被爆体験について」に基づいています。広島県のHPで知り、原文にアクセスしました。あいさつでは触れられていない、生々しい被爆の恐ろしさに息を飲みました。

 

 

原爆を受け継ぎ、伝えること

三好妙子さん「被爆体験について」

体験談の冒頭です。

八月六日家の廊下に座っていた。その時稲妻の様な光が頭上を通りすぎ真っ暗になり、やがて明るくなった時、母、祖母、私の三人は、吹きとばされ、床下に落ちていた。

被爆の瞬間は、まるで他人の目を通したように淡々とした描写です。でもこの後、目を覆いたくなるような本人の体験が描かれていました。湯崎知事の引用は惨状を詳しく描いた部分を避け、三好さんが見た被爆直後の街の様子に限られていたと知ります。

 

ここで疑問が生じました。何故、惨状を描いた部分の引用は避けたのか?あまりの惨状に、式典のあいさつに使うのをためらったのかも知れません。怪我や被害の描写が苦手な人は、クリックせず<-----ここから文末-----> まで進んでください。

 

<-----被爆体験を見る人はクリック----->

 

<-----ここから文末-----> 

あれから五十年。両親や兄を原爆で失い、自分は学徒動員に行っていて一人生き残った主人は思い出すのが、つらいのか決して、あの日の事は語らない。私も思い出したくなかった。でも、いい古された言葉だけれども、戦争が、どんなに悲惨なものかこんな話が信じられない今の子供達に、どうしても、知って欲しい。そして、この平和が、いつ迄も続く事を祈り乍らペンをとりました。

 

原爆を思い出したくなかったという三好さんが、凄惨な様子を細かく描写していることに胸が締め付けられる思いです。書きあげるまでにどれほどの葛藤があったでしょう。それでも原爆を伝える大切さ、平和への願いを体験談に託したのだと思います。

 

湯島知事はそれを受けて、次の世代に伝えたいと思ったのでしょう。ただ、あいさつで原爆の惨状はとても伝え切れるものではないこと、でも本当のことを知って欲しい、知った上で未来を展望して欲しい、そうした思いもあって、引用を紹介する形にしたのではないでしょうか。

 

今の原爆の伝えにくさの正体が1つ、ここにある気がします。悲惨で生々しい体験や記録をそのまま提示しようとすると、拒まれるケースが少なくないとも聞きます。原爆資料館でもその話が上がり、展示をリニューアルしたとの事。かつて被爆人形がむごたらしさを伝えていると評価がある一方で、実際はこんなものじゃなかったという意見や、怖いものを見たくない、見せたくない、怖がらせることで却って知ることを避けてしまうとの声もあったと聞きます。

 

原爆についての知識や体験の多様化

世代や年齢によって、原爆についての知識や体験は多様化していると思います。幾つかの類型を考えてみました。

1.「原爆被害を体験した人」

2.「原爆の体験はしていないが身近な人の話や現実に残っている物を見て育った人」

3.「原爆の話を学校の授業や映画、ドラマ、その他、展示で間接的に知った人」

4.「原爆の史実は知っていても、どんな被害だったかイメージが弱い人」

5.「史実を知りたくない、知らなくていいと思っている人」

私自身は3に当たると思います。でも、3の世代でも受け止め方は多様です。原爆の史実が風化される危機を感じる人、もう終わったことだから風化するのも当たり前とする人、過去にこだわらずに前を向いて生きることが大事だという人。

そうして時代の変遷とともに、危機感を持つ人が減ってきている印象です。

 

時の流れは、史実や記憶を風化させる作用があると思います。

人の営みには、忘れてはならない史実や記憶を引き継ぐ力があると思います。

時の流れに抗うことは簡単ではありませんが、

人が人らしく生きるためには、人の営みを続ける不断の努力が必要です。

普段の生活に不断の努力を位置付けるには、勇気と知恵が欠かせません。

でも、それは思うほど簡単なことではありません。

 

知って欲しい思いに応えられているか

三好妙子さんが9歳の体験を文章にしたのは被爆50周年(1995年)のとき。59歳になって、それまで黙っていた辛い体験を語っています。

 

被爆50周年について触れた記事があります。当時29歳。

の「何度目かの広島で」で、広島の世界大会に参加したを書きました。

平和公園の木陰で語り部さんの話も聞いたと思います。でも、詳しい内容は憶えていません。現実だったのか、夢だったのか、別の機会に聞いたことか、テレビで観た記憶なのかもあいまいです。情けない話です。

原爆50周年の思いを、体に触れて心に刻むと意気込んだものの、気持ちは舞い上がり、暑さにやられ、得たものはずいぶん浅かった気がします。

 

自身の原爆体験を話す語り部のことは知っていました。でも、私がまだ若かったせいか、被爆者の思いにきちんと向き合えていた気がしません。「何故、もっと早くに伝えてくれなかったのか。そうすれば平和ももう少し進んでいただろうに。」という疑問も感じていました。被爆者の思いに寄り添えずにいたのです。

 

三好妙子さんが「どうしても、知って欲しい」とした当時の子供達の中に、私は入れたのでしょうか。あれから27年が過ぎ、私も56歳です。原爆の知識は増えたはずですが、まだ理解できてないことも多く、現在の子どもたちに、何を伝えられるのでしょう。

 

語ることの難しさ

振り返ると、ほとんど何も私は語ってこなかったです。原爆の話だけでなく、今の世の生きにくさ、理不尽さ、職場で過度に求められた従順さ、素人は政治を口にするなとの圧力、そうしたものに抑え込まれ続けただけの気がします。

 

自分の考えが弱者、少数者の考えだと思うと、なかなかそれを言えません。加えて、それが辛かった経験であるほど、口に出すのに抵抗を感じます。辛いことを話すのは自分の我がままじゃないかと不安に思えたり、誰かから責められやしないかと怖くなったりします。「そんな不満を言うのはお前だけ」、「誰だって大変、自分だけが大変だと思うな」、「終わったことを掘り返して嫌な気持ちにさせるな」いつか誰かが誰かに言ってた台詞が頭に浮かび、自分の声を自分で制止してしまうことは多いです。

 

沈黙して平和になれるなら楽だけれど、そうはならず、じりじりと生きづらさが迫ってくる。語って平和になれるなら良いけれど、人から責められてもっと生きづらくなりそうで怖い。程度の差はあれど、皆、そんな風に感じて沈黙してしまうのではないでしょうか。

 

語ることの難しさに少しでも抗おうと、このブログでは夏に「平和と沈黙」シリーズを書くことにしています。今年は思いもしなかったことが立て続けに起こり、混乱を深めていて、何を書くか決めかねているまま、もう8月6日も8月9日も過ぎてしまいました。でも今、沈黙していてはいけないと、自分に言い聞かせて記事を書いています。

 

核兵器は、今そこにある危機

広島で

湯島広島県知事のあいさつで、もう一つ強く感じられたのが核兵器廃絶の思いです。

被爆者が、人生をかけてまで核兵器の廃絶を訴え続けるのは、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、この原爆の、核兵器使用の現実を心と体に刻みつけているからです。

として、今年6月の核兵器禁止条約第1回締約国会議に言及し一歩前に進めた瞬間と評価します。一方で、ロシアのウクライナ侵攻で核兵器使用をちらつかせた脅しもありました。それに対し、知事はこう述べています。

つまり、核兵器は、現実の、今そこにある危機なのです。

その上で、

ウクライナはいわばこの核抑止論の犠牲者です。今後繰り返されうる対立の中で、核抑止そのものが破られる前に手を打たなければなりません。

と訴えます。

 

皮肉なことに、ロシアによる核の脅しは、核抑止論を強める方向に利用されました。

ウクライナ核兵器を持っていたら侵略されなかっただろうという考えは、日本でも核共有が必要だという論調に繋がり、広がりました。さすがに、国会では広島出身の岸田首相は非核三原則を堅持し、核を持つことはあり得ないとの立場を鮮明にしました。しかし、それでも岸田首相は核抑止論の立場であり、核兵器禁止条約には背を向けています。

 

長崎で

8月9日には長崎平和宣言では、核兵器による威嚇を行ったウクライナ侵攻に触れ、こう述べています。(全文はこちら

この出来事は、核兵器の使用が〝杞憂〟ではなく〝今ここにある危機〟であることを世界に示しました。

そして、二つの重要な会議に言及しています。

平和祈念像のイラスト

一つは核兵器禁止条約の第1回締約国会議。

6月にウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議では、条約に反対の立場のオブザーバー国も含めた率直で冷静な議論が行われ、核兵器のない世界実現への強い意志を示すウィーン宣言と具体的な行動計画が採択されました。また、核兵器禁止条約と核拡散防止条約(NPT)は互いに補完するものと明確に再確認されました。

核兵器を持たぬ国の意思表明は、核を持つ国の核軍縮に作用する。私はそう理解しています。

 

もう一つがNPT再検討会議。

 そして今、ニューヨークの国連本部では、NPT再検討会議が開かれています。この50年余り、NPTは、核兵器を持つ国が増えることを防ぎ、核軍縮を進める条約として、大きな期待と役割を担ってきました。しかし条約や会議で決めたことが実行されず、NPT体制そのものへの信頼が大きく揺らいでいます。

NPTが核保有国の増加を抑制し、核軍縮に言及していることは重要な点です。核保有国が増加している現状はありつつも一定の歯止めとなっている点、不十分とはいえ一定の核兵器削減を実現している点は、評価されてよいでしょう。

ただし、ウクライナ情勢で、NPTが揺らいでいるのも確か。ともすれば再び核軍拡を加速しかねません。だからこそ、核兵器を持たぬ国の核禁止の意思が必要なのだと思います。

 

核抑止から核禁止へ

核抑止は核を持つ国の論理です。核抑止の考えは、核競争力を正当化し、人類を滅ぼす力を誕生させてしまいました。その過去を反省して核軍縮の流れも生まれましたが、まだまだ不十分。今なお、核抑止論は存在し、核戦争の危険に直面するたび、広がろうとします。ウクライナへの侵攻でも大きな声になりました。

 

一方で、核を持たない国が核を持とうとする動きに、世界は敏感に反応します。核を持つ国の優位性を守ろうとする思惑や、核を持つことで外交の優位性をもくろんだり、隣国が核を持つ脅威に対抗するためであったり、これ以上核保有国が増えて欲しくない平和からの願いであったり。そのため、他国の核兵器を自国に配置することや、核兵器の生産力を保持しておくなどの検討もなされているようです。

 

長い間、核を持たないとする国の選択肢は、核を持つ国と同盟を結び核の傘に入って身を守るか、同核の傘に入らず核も持たず孤立するか、選択肢は限定されていました。そこに核兵器禁止条約が一石を投じます。核兵器を無くすため国が同盟を結び、核を否定する勢力となることです。徐々に広がり見せています。核を持つ国に対して無力だと揶揄する声はありますが、核を否定する声の拠り所となっていくでしょう。

 

なお、世界で唯一の戦争被爆国である日本は、核兵器保有国の参加がないことを理由に、これを批准していません。しかし、核禁止の流れを加速するために、日本の批准を求める声は強いです。

 

被爆から77年。被爆地は長崎で終わらせる願いは、今も続いています。

長崎平和宣言でも明確な訴えがありました。

 「戦争をしない」と決意した憲法を持つ国として、国際社会の中で、平時からの平和外交を展開するリーダーシップを発揮してください。

 非核三原則を持つ国として、「核共有」など核への依存を強める方向ではなく、「北東アジア非核兵器地帯」構想のように核に頼らない方向へ進む議論をこそ、先導してください。

 そして唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に署名、批准し、核兵器のない世界を実現する推進力となることを求めます。

 

戦争の文化、平和の文化

核抑止か、核禁止か。まだ、両論は揺れ続けると思われます。

それは、不信と信頼の揺らぎに似ていると思います。

長崎平和宣言ではこう呼びかけています。

 私たちの市民社会は、戦争の温床にも、平和の礎にもなり得ます。不信感を広め、恐怖心をあおり、暴力で解決しようとする〝戦争の文化〟ではなく、信頼を広め、他者を尊重し、話し合いで解決しようとする〝平和の文化〟を、市民社会の中にたゆむことなく根づかせていきましょう。

これを受けて、考えました。

不信を煽り対立を激化させる中で、敵味方に分かれ同盟を結ぶ〝戦争の文化〟。

信頼を広め他者を尊重して、全ての国と同盟を結ぶ〝平和の文化〟。

核兵器は、平和の文化の中でこそ、廃絶できるのだと思います。

そこにある平和を手にしたいです。