「国立大は無理だそうだ」への疑問
1982年5月16日の母の家計簿にはこう記されていました。私が高2の時です。
(私の)学級会へ主人に行ってもらった。個人面接があったそうで国立大は無理だそうだ。
これには少なからず驚きました。高2の担任の先生は、「国立大は無理」と言うような人ではないです。一字一句までは不正確ながら、過去記事の通り
高望みしないなら希望大学の合格圏に入る可能性はあります。
と否定的なことでもやんわり言う先生でした。恐らく「国立大学は難しい」という感じの話だったのではないかと思います。
阪神戦の中継を一緒に見ない理由
ところで、前回の記事に書きましたが
です。でも、阪神戦の中継はあまり一緒に見ません。実家はケーブルテレビ契約で、阪神戦を中継はそれなりに多いのですが、父の悪癖にげんなりしてしまうのです。
例えば、1回の表に敵チームに1点先制されたら「あ~。今日は負けたな。」なんて言います。阪神が攻撃中に二死ながら1,3塁というチャンスを作っても「阪神はツーアウトになると点を取れないから意味がない。」とネガティブ発言。その後、点を取っても「まぐれ。もうこんなことは無いな。」という感じ。
応援しているのか、貶しているのかわからず、だんだんと私が腹を立ててしまいます。つい、「ツーアウトで点がとれないって言うなら、テレビ消せば?」なんて、トゲのある言葉を言ってしまって、気まずくなることも。とにかく、父はどうなるかわからないときに、微妙な根拠で結果を決めつける傾向があり、私はそれをどうしても受け入れられない場合が少なくないのです。
イソップ童話『酸っぱい葡萄』
父がちょっとしたことで結果を決めつけることは他にもたくさんあります。CPAPを使い始めた時には「これをつけて寝るのは絶対に無理」と言い、体調が悪くて歩くのも大変だった時は「もうこのまま治らない」、歩けるように回復しても少し歩きづらさを感じると「全然、良くならない。悪くなるばかり」という感じ。
その気持ちもわからないではないのです。良い方を期待して上手くいかなかったときのがっかり感を減らしたいのだと思います。イソップ童話の『酸っぱい葡萄』の様な感じではないでしょうか。
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。(引用: すっぱい葡萄 - Wikipedia より)
この話に出てくる狐は、何度もチャレンジしてから「酸っぱい葡萄」を言い訳にしますが、父の場合、チャレンジする前に言い訳をしている感じです。
先に結果を決めつける悪い癖
「国立大は無理だそうだ」も、そんな父の癖から出た言葉だと思います。父にその時のことを聞いてみましたが、すっかり忘れている様子。個人面接は全部母に行ってもらったと言っていました。それ以上、聞くのはやめました。一生懸命思い出させて、それを責めることは、本意ではないので。
ただ、私としては、先に結果を決めつけて力を抜く父のような言い訳はしたくないです。また、力を抜いて何かを得た、あるいは得られなかったとしても、不満が残りそうでいい方法には思えません。
だから、母の家計簿に父の「無理だそうだ」という言葉を見つけた時は、正直、がっかりしたのです。それを記事にするつもりでした。
でもーー。
ここまで書いて来て気づいたことがあります。
振り返ってみると「合格は無理だからあきらめろ。」と言われたことはありません。CPAPも不平不満の連発でしたが、「もうやめる。」と拒否したことはありません。「もう歩けない」と何度も言いながら、調子が悪くなければ散歩に出かける父です。
『酸っぱい葡萄』は、狐は葡萄をあきらめる話でした。
父は、酸っぱい葡萄だと決めつけながらも、チャレンジを続けている訳です。
それはそれで、評価していいのではと思ったのです。
「チャレンジする前から先に結果を決めつける悪い癖」という父のイメージは、「先に結果を決めつけても、なお控えめにチャレンジする癖」という風に変わったのでした。
それでも、一緒に阪神戦を見ようという気にはなりませんけど。
ちなみに今日、阪神はヤクルトに勝ち、今シーズン初めての貯金1となりました。
(4)へ続く。