将棋はそれほど強くないですが、このところ、twitter で詰将棋に挑戦することが増えています。と言っても挑戦するのは、3手詰め、5手詰め中心。手数のかかりそうな問題はちょっと見て、ピンとこなければパスです。ただ、3手詰めとわかっていれば条件反射的に考えてしまいます。あきらめずに頑張れば解けるはずという自信ではなく、思い込みがあるのに加え、知らなかった景色が手軽に見えるかも、そんな感覚です。
その理由を、記事にしてみました。
3手詰め3問
まず、3つのライフステージ別に、強く記憶に残る3手詰問題を紹介します。
(※記事に文字をぼかした箇所がありますが、ぼかし部分にカーソルをあてる、またはタップすると読めます。)
一 小学生時代
小学生のときに初めて買った詰将棋本にあった3手詰めです。この問題に出会えたから、詰将棋に興味を持ったと言っても過言では無いと思います。3手詰めだから簡単だと思っていましたが、当時の私には難問でした。でも一生懸命考えた分、記憶が鮮明なのでしょう。
王手をかけられる初手は、桂馬を動かしての空き王手か、飛車を打つかです。
2三桂成で香と同時王手は、玉に成桂を取られて逃げられます。
だからまず、初手2三桂成は無し。
そこで、飛車打ちで王手のかかる場所を一つ一つ考えます。
1一飛 同玉の後、2三桂成で香を利かせた王手は、1二に銀か金で詰みません。
1三飛 玉に取られて、2三桂成は同玉で詰みません。
1四飛 1三歩合い、2三桂成も同玉で詰みません。
何だこれは?!どこに飛車を打っても詰まないじゃないか。
これは問題が間違ってるんだとも考えました。
2四に攻め手の歩があるのを書き忘れたんじゃないか。(想像図A)
でも、それだと2三桂成の1手詰めだよな。
2三に受け手の歩があって、桂と香がもう一段下だといいのに。(想像図B)
でも、それなら2四桂で両王手で合い駒が使えず1手詰め…。
ん?桂が成らずに両王手だと合駒が使えない?
あ!これだ!
そうか、1一に飛車を打って同玉と取らせて、成らずに桂跳ね!!
(※ぼかし部分にカーソルをあてると読めます。)
やった!できた!!!
この時の快感が忘れられなくなったのです。3手詰め問題に反射的に考えてしまうのはこの経験があるからでしょう。
残念ながら本は紛失していて、作者が不明です。でもネット検索ですぐ見つかる作品なので有名な問題なのだと思います。
スマートな解き方でなくても自分で考え抜いて答えが出せた喜び。小学校中学年の国語で習った話とつながります。
当時、周りに詰将棋をする友だちはいませんでしたが、いつか、この問題を誰かに出してみようと決めたのでした。
二 高校時代
将棋の実力は大したことも無く、友人や先輩に勝ったり負けたりの繰り返しでした。いえ、高校時代の手帳のメモを見る限りでは負けの方が多かったような。土曜日、サッカークラブ練習の前後や、正課クラブ、自宅でもよく指してました。あと、かなり弱いアーケードゲームで遊んだことも。
詰将棋は、頑張っても7手詰あたりで息切れ、9手詰以上となると、運良く解けることが極たまにあるくらい。そんな感じなので、詰将棋は本屋さんの立ち読みや図書室で解くので十分という感じでした。
二つ目の問題は、立ち読みで見つけたものです。
シンプルな駒の配置と意表を突く手に軽く衝撃を受け、記憶に刻印されました。この問題も初手は限られているものの、解くには予想外の時間がかかりました。というより、家に帰って、駒を並べて解きました。解けた時は手を叩いてガッツポーズ。
先に答えを書きます。(ぼかし部分にカーソルをあてると読めます)
初手▲5二角成と豪快に角切り。△同銀に対し、もう一枚の銀が無い側に▲銀打ち。
結局この本は買いませんでしたが、古典の有名な問題だと知ります。解けたとは言え、まだまだ有名な問題も知らないと知り、将棋や詰将棋の奥深さを感じました。この後、手筋を説く本を読んだり、自分で駒を並べて確かめたり、次の一手問題、大局観等、将棋の基礎を意識して学ぶようになりました。また、下手ながらも詰将棋を作ってみるようになり、友人に自作問題を出すこともありました。
自作の問題の一つを紹介した記事がこちら。
紹介した3手詰問題を参考に、見た目のシンプルさにこだわって作ったのでした。
三 インターネット時代
大学では将棋部に入り、それなりに指し込み、記憶のみでの棋譜再現や、詰将棋で13手詰めの問題も解けるようになりましたが、上には上がいるものです。やがて、自分の限界を感じてしばらく将棋から離れます。対局もお付き合い程度になりました。
そして就職して90年代後半、自分用パソコンを持ち、将棋ソフトで遊ぶようになります。とは言え、当初こそ勝てていましたが、将棋ソフトが将棋AIとも呼ばれるようになった頃、勝てなくなりました。
詳しくはこちらの記事。
また、「将棋倶楽部24」というサイトで対局もしていましたが、最高レートはR829、勝率0.489 でした。棋力がかなり落ちたと自覚して、対局はめっきりと減り、観戦や詰将棋を楽しむくらいになります。棋力は落ちたとしても、3手詰め、5手詰めくらいならまだ何とかなる、頭の体操にも良いと思っていた頃、衝撃を受けたのがこの問題です。
詰将棋に親しんでいれば知っている人も多いでしょう。
タイトル「新たなる殺意」
1989年3月『詰将棋パラダイス』397号幼稚園13に発表されました。
作者はHN行き詰まり氏(本名・片山倫生)。
詰将棋に看寿賞という名誉ある賞があり、それを初めて3手詰めで受賞した作品です。
考えたい人のために詳しい説明(ヒント)は隠しておきます。
答えを含めて詳しく知りたい方はこちら
今の将棋観
「新たなる殺意」は文章がヒントになって、たまたま解けただけで、自力で解いた感じはありません。解けるかどうかはもちろん大事ですが、少年期、青年期と比べて、解けなかった悔しさはあまり感じなくなりました。
今、3手詰めはパズルを楽しむのに似ている感じがします。自力では思いつけなかった手を答えで知って、それに感動するみたいな。解けなかった問題に出会うと自力でたどり着けない世界を教えてもらえたような嬉しさもあります。
将棋を例えるなら、どこかの山の頂上から景色を見て感動するのに似ているのかも。決して自分だけの力では得られなかった景色。地図を見て、乗り物を利用して途中まで移動。登り口からは徒歩でも、足取りが軽いのは靴を履いているおかげですし、歩きやすい道は誰かが作った道。天候が良いのも自分の力ではありません。
詰将棋も、自力で解くことに、こだわりがかなり薄くなりました。というか、詰将棋を楽しく感じられたのも、誰かの作品があったからこそ。自力で解けても解けなくても、詰将棋の魅力ある世界は変わらず存在しています。天気が悪くて景色が楽しめなくても、別のタイミングでは楽しめるはず。いえ、たとえ天気の悪い中で進んだとしても、陽が差せばいい景色が見えるように、一瞬の何かのひらめきで世界が違って見える時があります。
次の一手が見えるかどうか、解けるか解けないか、勝つか負けるか、自分の棋力が上がるかどうか、それらを無視して自分の上達はありませんが、それまで知らなかった景色を見ることは決して無意味では無いです。誰かの棋譜を見て、気づけなかった一手に感動する、自分では到達できない局面で次の一手を考える、そんな楽しみ方もあります。
将棋を散歩気分で楽しむのも悪くない。そんな風に思うのです。
今週のお題「何して遊んだ?」