tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画24.『ブリキの太鼓』(1)子どもと大人との狭間で観て

40年前に観た作品

ブリキの太鼓』(1979年)を映画館で観たのは1982年5月17日(高2)。リバイバル上映でした。もう40年前のことになります。

 

1979年度アカデミー外国語映画賞を受賞したと知って興味を持ったのですが、いろんな意味で衝撃を受けました。この作品の評価は大きく分かれ、性的、差別的で醜悪等の批判もあった上、児童ポルノに当たるとして、上映やビデオテープの所持が禁止された国もありました。その後、汚名は返上されますが、絶賛する人がいる一方、今なお批判も多い作品です。当時はそんなことを知らずに観ましたが、これから観る人はその辺の前知識は持っていた方が良いように思います。

 

それでも常に、私の好きな映画10選からは外せない作品になっています。

人生に大きな影響を与えられた作品です。これまでにも何度か記事にしようとしたものの、上手くまとめられずにいました。でも、機会あって40年ぶりにネット配信で観ることができ、思い新たに書き直しています。

 

 

ブリキの太鼓』あらすじ

※ <閲覧注意>以下、多くのネタバレを含んでいます。

舞台は第一次世界大戦前のヨーロッパ。オスカルの祖母アンナが若い頃、警官から逃げる男をスカートの中に隠してやります。その時に妊娠し娘アグネスを産みます。男はその後、再び追われて行方不明に。話では、溺れたか、逃げて富豪になったか。

 

第一次大戦を経て、アグネスはドイツ人のアルフレートと結婚。一方で、ポーランド人の従兄ヤンとの愛人関係も続けます。三人は一緒に行動することも多い稀有な関係です。父親がどちらかわからないまま、アグネスは物語の主人公オスカルを出産します。オスカルは生まれる前から知性があり、今後、成長するかどうかと考えますが、3歳の誕生日にブリキの太鼓をもらえると知って、それまでは成長することに決めるのでした。

ブリキの太鼓 イメージ

ブリキの太鼓をもらった3歳の誕生日、オスカルは周囲の大人達が酒を飲み、浮かれて乱れるのを見て嫌気がさし、成長をやめると決意。階段から落ちて、怪我のせいで成長が止まったと周囲に思わせることに成功します。太鼓を取り上げられそうになった時、奇声を上げるとガラスを割る特殊な能力があることにも気づきました。

 

街に少しずつナチスの影がちらつくようになった頃、身体が成長しないままのオスカルは学校に馴染めず、いじめにもあいます。アグネスは郵便局で働くヤンとの逢瀬のため、おもちゃ屋を営むユダヤ人のマルクスにオスカルを預けます。しかし、オスカルはアグネスの不倫を知り孤独感を深めます。そんな折、訪れたサーカスに身体が子どものままの団長と知り合います。奇声でガラスを割る能力を見せるとサーカス団に誘われますが、オスカルは応じませんでした。

 

街にナチス色が強くなると、アルフレートはナチスの集会に参加するようになり、ポーランド人のヤンとは溝ができていきます。そんな中、アグネスは第2子を妊娠するのですが、精神を病み自殺してしまいます。その葬儀にマルクスも訪れますがユダヤ人を理由に参列できなかったばかりか、その後ユダヤ人迫害の中で命を断ちます。

 

ドイツ軍の侵攻が始まり、ポーランド郵便局は襲撃され、ヤンは命を落とします。街がドイツ帝国編入される中、アンナはアルフレートに手伝いとして16歳の少女マリアを紹介。オスカルはマリアに恋をしますが、3歳児の体でもあり子ども扱いをされます。ただ添い寝はしてもらえました。やがて、マリアはアルフレートと関係を持ち、オスカルの弟クルトを出産、結婚します。しかし、オスカルはクルトを自分の子だと考え、3歳になったらブリキの太鼓をプレゼントすると約束した後、家を出てサーカス団に身を寄せるのでした。

 

サーカス団はドイツ軍の慰問をしていました。オスカルはサーカス団の女性と親しくなりますが、ドイツの敗戦色が増す中で命を落とします。失意のオスカルでしたが、クルトが3歳になる日にプレゼントの太鼓を持って家に帰ります。

 

街はソ連軍の攻撃に遭います。オスカルらは地下に身を潜めるものの、見つかってしまいナチス党員になっていたアルフレートは射殺されます。彼の土葬を行う中で、21歳になったオスカルは再び成長すると決めて墓穴に落ちます。新しく成長を始めたオスカルとマリア、クルトは住む場所を求め、祖母アンナを街に置いて、西に進む列車に乗り込むのでした。

 

ブリキの太鼓』の魅力

主人公オスカルは無邪気を装いながら、大人を欺き窮地に陥れるのを楽しんでいるかのよう。周りの大人達もそれぞれに闇や悲哀を抱え込み、常に不幸の影がちらつきます。物語には良い人生を送れたと言える人はおらず、誰もが罪を背負い、悪意を隠しています。皆、時代に翻弄され、あるいは乗っかって、生きているのです。

 

全編が暗くて重く、残酷なことが当たり前のように映し出されます。時代に抵抗することはできず、受け入れるしかないやるせなさも漂います。一方で目を引く美しいシーンも散りばめられていて、その落差に悲哀を感じてしまいます。幸せそうなシーンでも不安が付きまとい、その不安が的中することも多いです。不倫や性暴力など屈折した性描写も多いです。

 

そんな訳で、この作品を一括りに「エロ、グロ、ナンセンス」映画だと酷評する人の気持ちがわからないでもありません。でも私は、年齢や性、民族問題、戦争等が混沌としながらも日常の深い部分まで関わっているというメッセージを感じます。作品の魅力をスマートに説明するのは難しいですが、高校時代から感じ続けていることを中心に3点に絞って記事にすることにしました。

 

1.大人になる意味、子どもでいる意味

当時16歳だった私は、映画手帳に「子どもが見る目の存在は重要」と感想を書いています。大人の汚さや狡さに気づき、「大人になりたくない」と思う一方で、子ども扱いされることにもうんざりしていた頃です。『機動戦士ガンダム』のシャアの台詞、「坊やだからさ。」にも強く共感していました。

坊や(甘えや自惚れを持つ存在)である限り、強い大人(甘えや自惚れを断つ存在)には勝てない。そのメッセージが、シャアの「坊やだらかさ。」に隠されているとも思うのです。

当時の「子ども」と「大人」のイメージは荒れた海のようにぐらぐら揺れていた気がします。「子どもの目を失わず、坊や扱いされない大人になりたい」なんて、あれこれ考えていました。でも、子どもとは、大人とはどんな存在かと問われると上手い答えがなかったので、やはりまだ子どもだったのでしょう。

 

ブリキの太鼓』には、漠然でありながらも、その答えが隠されていた気がします。

外見上、オスカルは3歳であるゆえに、わがままは通じやすく、甘やかせてもらえることも多いです。それを利用して、無邪気と悪意とわずかな善意が混ざり合った行動をとります。その行為は無責任でありながら、他の人にはできない自由もあります。ただ、大人とも他の子どもともつながりは薄く、孤独感に包まれていました。

一方で、子ども扱いされる不自由さからも抜け出せません。サーカス団で過ごした時期こそ仲間に恵まれますが、そこは大人から与えられた、世間とは切り離された場所。ドイツ軍の敗色が濃くなるともろくも崩れてしまい、家に戻るしかなかったのです。

自由のままに居たくて成長を止めたはずが、極限られた自由しか得られない不自由。なんという皮肉でしょうか。大人であっても子どもであっても、思い通りの自由は手に入らないのです。子どもだから自由、大人だから不自由、あるいはその逆、そんな単純な構図ではないと気づきました。

 

16歳で作品を観た時、大人の汚さと子どものままでいるつまらなさを感じました。大人は、良くないとされることも隠れてし続け、都合が悪くなれば主張を変え、言い訳をして、正当化しています。しかし、子どもにはそれを許さず、大人に従わせようとします。子どもでいる限り、大人に抵抗はできない、そんなイメージでした。

 

しかし、40年ぶりに観て、汚い世界で好き勝手をする子どもの罪深さにも気づきました。かつてなら、痛快に思えたオスカルの行動が、無慈悲で残酷に思えたのです。そして、配慮に欠けると思われた大人の行為を責められなくなっている自分、子どもの身勝手を責めたくなる自分にも気づきました。

 

特に、オスカルの叩く太鼓の音と奇声。全てのシーンに通じるものではないのですが、自分の感覚の変化に驚きました。かつては痛快に思えた音や声が、今回、不快に聞こえることが少なくなかったです。16歳のときでなければ、あの痛快さは感じられなかったでしょう。観ていてよかった、そう思いました。

 

結論的には、大人になる意味、子どもでいる意味は今もよくわかりません。でも、大人になってみないとわからないこと、子どもでなければわからなかったことが確かにあると思います。子どもだからわかったことの積み重ね方で、大人になってわかることも変わるのだろうなとも思います。どんな積み重ねが良いのか悪いのか、それは不明ですが、『ブリキの太鼓』は子どもの時に積み重ねられた欠かせないものとなっています。

 

 

長くなりました。次回に続けます。