tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn60.冬のスポーツがマラソン、サッカー、なわとびだと変ですか?

冬のスポーツと言えば、雪や氷の上でのスポーツが定番。そこに、マラソンやなわとびを挙げたら「え?」と思われるでしょうか。私が生まれ育った地域は、ほとんど雪が降らないしスケートリンクもありません。冬のスポーツと言っても雪や氷とは無縁のものばかりでした。

 

小学校時代(1970年代)、秋も深まってくるとドッジボールや鉄棒、ジャングルジム、ブランコ等は手が冷たくなるので敬遠され、サッカーやなわとびが主流になっていきます。体育の授業も、準備体操をしてそのまま持久走(マラソン)で体を温め、幾らかなわとびをした後、サッカーをしていたと思います。

 

 

持久走

学校でマラソンカードなるものが配られてました。トラックの周回分、マスが塗れるのです。カードには略地図があって、小学校からスタートし、「A市に到着」、「C町に到着」などわかるよう、モチベーションを維持する工夫がされていました。トラック1周が100mに換算されて、高学年はマラソンの距離分=422マス塗るのを目標にしていたような。

あれ?1枚のカードに422マスもぬれたっけ?トラック1周200mかな?それなら211マス。記憶が曖昧です。100mのトラックだったら、子ども(全校で約600人)がぎゅうぎゅうになりそう。低学年、中学年、高学年で時間を分けてたのかな?カードも違ったかも知れません。そんな感じ?で再現してみました。

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ラソンカード イメージ

何だかずいぶん違う気もしますが、当時の印刷は、手描きでローラーを使った手刷り。上のイメージみたいに鮮明ではなかったです。児童会のメンバーで印刷を手伝ったような記憶もあります。

 

冬になると、長い休み時間のマラソン(42.195㎞ではなく持久走)が推奨され、音楽が流れ、その間はトラックを走ることになっていました。アップテンポな曲の間は走り、ゆっくりした曲になるとトラックを歩くというものでした。トラックを走らず周囲で遊んでいた子もいましたが、素直に真面目に時間いっぱい走っている子が多かったです。10周走れたら自慢できるような感じでしたが、走るのは10分くらいなので、2kmなら走れない距離でもなさそうです。

 

体育の持久走は、5分だか10分だかで運動場のトラックを何周走れたかをカウントし、この数もマラソンカードを塗ってよいことになっていました。また、始業前に早く学校に来て走るのや、昼休み、放課後も授業をしていなければ走ってもOK。そんな訳で、1日に30周を超えたこともあったような。50周走ったという子もいました。カウントが本人任せなので、大胆に嘘を塗って自慢する子もいました。でも、クラスで一番速い子よりも長く走れるはずが無いと指摘され、バツが悪そうに黙ってました。実際、その子が朝早く来て走っているのをクラスの誰も見たことが無かったので、観念したのでしょうね。

 

サッカー

当時、サッカーと言えば、オフサイドというルールさえ知らず、みんなで寄り集まってボールを蹴り合うスポーツでした。蹴ったボールが誰かの足に当たって思わぬ方向に転がることもよくありました。そうなると、みんなが一斉にボールを追いかけ、また蹴り合うのです。

 

集団で蹴り合うのを嫌う子がゴール近くで待っていて、運良くその子にボールが転がれば得点のチャンスです。でも、自分でゴールを決めたい子が集団になっているので、パスという発想がありません。むしろ、パスは卑怯な方法だと思っていた節があります。その内、みんなが疲れてボールを追えなくなって、体力の残っている者がシュートするパターンが多かったように記憶しています。

 

私は体も小さく足も遅く、早々に集団についていけなくなって、ゴール近くにポツンと立っていたタイプ。でも、運良くボールが来ても、シュートの空振りが多くて、あまり役に立ってなかったです。

 

そのせいでしょうか、中学になってクラブ見学の時、先輩のドリブルやシュート、パスやトラップ(飛んできたボールを手を使わずに身体の一部で受け止める)がとても格好よく見えたのでした。サッカー部に入った動機はそんな感じだったと思います。

 

短なわ

なわとびもカードが渡されました。前跳び、後ろ跳び、交差跳び、片足跳び、前二重跳び、後ろ二重跳びなどの回数が書かれた欄があり、それを達成すると印をつけられるシステム。このカードは、個人の力量差があまりに大きく不評でした。前跳びや後ろ跳びなら続けていれば回数が増えますが、二重跳びは、連続でできる人とできない人の差があり過ぎて話になりません。私はできない派で、前二重跳びは2止まりのまま春を迎えた気がします。

 

また、ビニル製のなわは切れることが度々ありました。切れたのを固く結び直して飛ぶこともありましたが、途中でまた切れて、その先が頬に当たることもありました。寒空の下、冷え切った頬にビニルのなわがムチと化してピシッと当たるわけですから、結構痛かったです。

 

冬休みの宿題で、毎日100回以上跳ぶなんてのもあったような。二重跳びで100回やってる子もいましたが、私は前跳びばかり。それも途中で引っかかって、足し算して100回にしていた記憶があります。

 

長なわ

小学生時代の冬の遊びと言えば長なわというくらい、よくやりました。少人数から始まるので最初は8の字跳びとは言え、誰かが跳んで一回空回しを挟んで次の人が跳ぶ、或いは、かなりゆっくり回すなどになります。10人くらいが集まるとトン、トン、トンとリズムよく次々跳べるようになります。

 

さらにクラスの半分以上が集まってくると列が長くなり、待つ時間も増えて身体が冷えるのでルールが進化します。「挑戦」と呼ばれていたと思います。先頭の人はなわを跳んだ後、そのまま離れた鉄棒等にタッチしてから列に戻ります。後続の人はそれに続きます。最後尾の人が跳んだ後に途切れず先頭の人が2回目を跳び、そのまま最後尾まで途切れることなく跳べたら「挑戦」成功です。誰かが失敗すれば先頭の人がなわを持つ係になるルールでした。

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長なわの挑戦

跳ぶのを切らさずどこまで遠いところにタッチできるかーー。

 

成功の秘訣は先頭の子が、走るのが遅い子のことも考えて適度な距離を見つけることとなわ回しの速度。足の遅い私は自分が間に合いそうなところを選べばよかったです。今思えば、長なわはとても良い雰囲気がありました。跳ぶのが途切れた時、走るのが遅い子や引っかかった子への非難より、その子への励まし、先頭の子への配慮不足や回し方を指摘する声が強かったのです。強い非難はほとんどなく、このメンバーだとどのくらい離れた所ならOKなのかリーダー的な子が提案して相談したり、なわの回し方の指南をしたり。なので、「挑戦」が成功した時はみんなで拍手して喜んでいました。クラスで長なわ人気が続いたのもこれが理由だったのでしょう。笑顔が多かった遊びという印象です。

 

もっとも、長なわが上手く跳べずに参加したがらない子や、途中で抜ける子、不平不満を口にする子もいるにはいました。でも、体育の授業で長なわがあった時、なわの回転に合わせてみんながうなずきとかけ声でリズムをとり、苦手な子を励ましていました。なわを回すのにもコツがあるのですが、これも前向きな言葉で教え合う感じ。腕を大きく回し、下から救い上げるようにして跳びやすくすると、みんなから褒めてもらえるのでなわ回しの役も人気でした。結果、全員跳べるようになったと記憶しています。

 

その他

中学年の頃までだったか、馬乗り(馬跳び)も流行っていました。男子も女子も一緒になって体をぶつけていました。高学年になるとさすがに男女を意識していたように思いますが、それまでは遠慮なくやってましたね。おしくらまんじゅうもやってました。

今の時代ではちょっと考えづらいかも。馬乗り、おしくらまんじゅうという遊び自体知らない人は多い気がします。

 

え?これらは、冬のスポーツではなく冬の遊びですか?

でも、スポーツジムやスポーツクラブが多い現代と違って、小学生の頃はスポーツと遊びの区別がほとんど無かった気はします。

 

 

今週のお題「冬のスポーツ」