tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn59.カウントとか、うんと考えてみた

煙草のカウント

告白します。1988年8月、22歳から煙草を吸うようになって34年間、ずっとカウントし続けていることがあります。

煙草の本数です。

さっき、また吸ったので、10万4706本。

すみません、冗談です。

 

でも、煙草を吸うとき、今日の何本目かをカウントしてるのは本当。

日常的に吸い始めて程なくルールを決めました。

吸うタイミングを考えながら1日10本以内--。

今は3日で1箱(20本)以内です。

 

高校時代に喫煙が20万本を超えると肺がんになるリスクが高くなると知ったのを逆手に取って、1日10本以内なら60年吸っても大丈夫と考えたのでした。もっとも、後に、肺がんリスクの目安として喫煙指数(ブリンクマン指数)が広がりました。累計20万本より厳しい設定で「1日に吸うタバコの本数×喫煙している年数」が400を超えると危険とされます。現在、多めに見積もって310くらいでしょうか。

 

 

「正の歴カウント、負の歴カウント」

さて、私も購読しているSさんの『ですね。note』に興味深い記事がありました。

私なりに要約すると、

「誕生日等のお祝い、交際記念、結婚記念、その経過日数や年数を正の歴カウントとして、元カレ・カノと別れてから〇年、彼氏・彼女いない歴〇年等を負の歴カウントとして考えた時に、負のカウント歴って必要ですか?」

という問いかけです。その中に

「たばこやめてどのくらい経つんですか?」言われます。でも僕覚えてないんです。覚える気もないんです。

とありました。これを見て、私の煙草歴は正の歴カウントか、負の歴カウントかと気になりました。私の煙草カウントは、あと〇年は煙草を吸っても大丈夫という発想からで、負を避けるカウントに思えます。え?結局、確実に負に近づいてる?そうかも。いえ、それはそうとして。

 

ただ、この辺りのカウントは、Sさんからすると

身近なとこで言えば消費期限とか、賞味期限とかも。これらと僕の思う正の歴と負の歴のカウントの概念が違う気がするんですよ。

にあたる気もします。ま、どっちにしても煙草カウントはそれほど大事なことじゃないです。きっと大事なのはここでしょう。

東日本大震災について)あれから何年とか、忘れちゃいけないとか、経過日数で、年数ごときで、僕の中のその記憶は変わらないですよ。その出来事に対し受け止め方は変わるかもしれないけど、起きたことは変わらないですよ。変わるわけがないんですよ。

の部分。そして結論を

この負の歴のカウントはいらないのではというのが僕の考えです。もしかしたら、何を負の歴のカウントとするかが、重要なのかもしれませんけどね。

と締めています。一言にまとめるなら「起きたことは変わらないから、負の歴のカウントはいらない」となりそうです。補足的に最後、

皆さんはどう思いますか?教えて下さると幸いです。

この回答をいつまで待つとかいうのも負の歴のカウントだと思うんですよね。

と書いていて、Sさんらしいなと。「幸い」を待つのは「負の歴のカウント」とあっさりひっくり返しています。さらに見方を変えると、待つという負の歴カウントはいらない=待ってないからね、とも読めてしまって、読み手は煙でぐるぐる巻き。

 

でも、実際、そういうことって多そうです。ともかく、あっさりひっくり返るって辺りから思ったことを書くことにしました。

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歴カレンダー

正と負が簡単にひっくり返る話

離婚

どこで知ったか憶えていないですが、例えばこんな話。

「離婚してもう3年よ。あなた、再婚しないの?」

「結婚はもういいかな。」

「えぇ?まだ離婚を引きずってるの?」

「違うわ。世の中には2つの離婚があるの。1つは不幸な離婚。もう一つは幸せな離婚。幸せな結婚をして安定する人がいるように、私は幸せな離婚をして安定してるの。」

離婚カウントは正の歴?負の歴?

 

戦後77年

あるいは、こんな話。

日本では戦争をせずに77年。

「戦争を忘れてはいけない」と忠告する人がいて、

「平和が続いていてよかった」と喜ぶ人がいて、

「もう戦後ではない、新しい時代を」と呼びかける人がいて、

「いつまでも戦後のままで、決して戦前へ戻さない」と誓う人がいて

「国として交戦権を奪われた屈辱」を感じ続ける人がいて、

「敵基地攻撃力の配備を目指すべき」と強弁する人も出てきて

戦後カウントは正の歴?負の歴?

 

阪神・淡路大震災後27年

あの日から、 9886 日。(2022年2月9日現在)

1995年1月17日に起きたことは変わらないけれど、今になって初めてわかることもあって、また、これまでの経過の中で積み重ねられてきたこともあって。

何も言えずに亡くなった人がいて、その人から離れるしかなかった人がいて、その人の遺志を継ごうとする人がいて。

何も知らずに生まれてくる人がいて、何も知らないままに過ごす人もいて、震災に向き合うようになる人もいて。

 

それらのほとんどを知らない私が、震災を経験した友人に今年もその日が来たねと声をかけ、今年はこんなことがあったと教えてもらって。口が重い年もあれば、「あれは嬉しかった。」とちょっと元気に話してくれる年もあって。

 

「あれから9886日経ったんだよ。」と数えただけでは伝わらないことがあって、でもカウントし続けているからこそわかることもあって、…と思うのです。

 

カウントの意味

「カウントって何?」って聞かれたら、大抵「数えること」と答えるでしょう。だって、数字が増えていく、或いは減っていくのですから。

 

でも、上記のカウントは「積み重ねること」に近い気がします。何をどう積み重ねながらカウントしたのか、それは、積み重ねた人にしかわからないです。積み重ねたものが、正か負か不明なこともあると思います。毎年、同じものを積み重ねたつもりなのに、見方が変わって突然に正と負が逆転してしまうこともあると思います。

 

阪神・淡路大震災も、毎年1月17日を迎える度、これで1年、これで2年と数えるだけならカウントにあまり意味は無い気はします。でも、1年でこんな状態、2年でまだ先が見えない、3年でちょっと進んだかな、4年でこれはできた、5年でここまでできた、10年で風化させたくないよね、20年ではじめて子どもと真剣に話ができたーー。

 

Sさんが言うように「その出来事に対し受け止め方は変わるかもしれないけど、起きたことは変わらない」のはその通りだと思います。

その一方で、「起きたことは変わらないけど、その出来事に対し受け止め方は変わるかもしれない」のも事実だと思います。

 

その時から何年経ったかだけでなく、受け止め方がどう変化してきたのかも見ながらカウントるのもありじゃないかと思うのです。それを正と負、どちらの歴とするかは、カウントする人次第。正と負どちらでも、出来事との時間や距離に強い思いがあれば、カウントを続ける意味はあると思うのです。

 

うんと考えてみた

ここまで、Sさんの聞きたかった答えにはなってないかもと思いつつ書いています。Sさんが「正の歴のカウントと負の歴のカウント」と「歴」を使っているのは、積み重ねたものでなく、年や月日を数えることだけを意味しているとも思うからです。

 

何のために何をどうカウントするのかを抜きにして、歴をカウントすること自体に意味があるのか?となると、私も大した意味はないと思います。初めてオリオン座を見つけた時から何年経ったかのカウントなんて、何でそんなの数えてるの?って感じですよね。でも、オリオン座を見つけて天体に興味を持ち、1年目で月日に応じて星座の出現時刻や見える位置のずれを目の当たりにし、2年目で初日の出を見に行こうとして沈みかけたオリオン座の大きさに感動し、3年目でこいぬ座おおいぬ座、おうし座の見つけ方にも気づいたと何かを積み重ねたなら、そのカウントにも意味があると思います。

 

結論としては、カウントに意味があるのではなくて、意味を感じるからカウントするのだろうなと。或いは、何となくカウントしていたことでも意味を見つけ出せたら、それはそれで意味があったカウントということでしょう。意味を見つけ出せないままカウントが終わってしまったなら、それはそれで、意味が見つけられなかったカウントであって、無意味なカウントとは違うと思うのです。

 

このブログのサブテーマが

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみよう

ですから、一見無意味に思えることにも、実は意味があるんじゃないかと願いにも似た思いが私にはあります。この記事は、それゆえのこじつけという気もします。

 

意味があってカウントする場合、正の歴のカウントと負の歴のカウントの別はあるかも知れません。でも、受け止め方で正と負の入れ替わりが起きるなら、負の歴を正の歴に変えることもできそうです。自分で変えることができなくても、カウントし続ける内に正の歴に転換することもあるわけで、意味がありそうなら正でも負でも、ひとまずカウントするのもありと思いたいです。

 

「僕は知らなくてもいい」のタイトルに、「僕は」と「も」がついているのには意味があるのかも。何だか、他の人の意見を引き出すためにつけた気もするのです。私が上手く釣られたのだとしても、それはそれでちょっと嬉しい。「僕は知らなくてもいい」のおかげで、カウントとか、うんと考えられてよかったと思うからです。

 

Sさん、興味深い記事をありがとうございました。

答えになってないかも知れませんが、以上、このブログ351番目の記事でした。

 

うんと考えた結果、また長文になりました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

今週のお題「告白します」