tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業24.『津軽』(太宰治)は愛と憎しみの汽水域

津軽』(太宰治)を一言で説明するなら、「愛と憎しみの汽水域」だと思うことにしました。愛と憎しみが静かに混ざり合った話に思えたからです。

 

津軽』全編を読む

津軽』は、序章と本編の一~五章からなる小説です。40年も前、高1の国語の教科書に、五章部分(一部か全部かは不明)だけが掲載されていました。授業でも、その部分だけの学習だったと思います。当初、そこだけを記事にするつもりでしたが、青空文庫に『津軽』があったので、全文を読んでみました。

www.aozora.gr.jp

読後、高校時代からの印象は、がらりと変わりました。

 

(注意:これ以降、ネタバレあり)

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津軽』に登場する主な場所

高校時代のイメージ

印象に残っている部分

教科書に記載された、太宰と幼い頃に世話になった元女中のたけとの再会部分が物語のクライマックスだと聞いていました。その中で印象に強く残っている部分を紹介します。

 

太宰がたけの家を訪れても留守で鍵が掛かっています。当時の田舎で鍵をかけて出かけるとなると、ちょっと出かけたのとは意味が違うと考えて焦ります。近所の人に声をかけ、近くの学校の運動会の応援に行っていると聞いて訪れます。その盛況ぶりに気持ちが昂りますが、人が多過ぎてあちこち探しても見つかりません。やがて帰りのバスも気になり始め、太宰は悩みます。

 

気持ちの乱降下が激しい部分を引用します。

この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、(たけは)重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。

 

文章を全部記憶していたわけではないですが、この部分、よくわかる気がしました。悩んで自分の意を決しきれないとき、何かに命運を委ねたくなるような感覚。自らの願いはかなえたい、でも他の人に迷惑はかけたくない。その狭間。切望と諦めが同居する中で、運命を拓くべきか、受け入れるべきか。

 

客観的に見れば、近所の人に矢継ぎ早に聞いたり、運動会を応援している人に声を掛けたりするのも、迷惑と言えば迷惑な話です。そこは自分の許容範囲でありながら、先生に頼んでメガホンで叫んでもらうのは許容範囲を超える。その境界線のあやふやさ。人は、その時その時の自分勝手な境界線を前に、何度、決断を間違えてきたのでしょう。

 

授業で、太宰は決断を避けて悩み続ける人という印象ができました。とはいえ、共感する部分も多いのです。たけを求める思いや、どこかで区切りをつけたい思い。それは、太宰に共感したい気持ちと否定したい気持ちとに重なって、その後、太宰作品への関心へとつながっていきました。

 

物語の結末

太宰は、バス発着所に行って出発時刻を確かめ、その便の後が無いと知り、帰ると決めます。出発まで約30分。その間、急いで食事をしたり、発着所のベンチに座ったり、辺りをうろうろしたり。いよいよバスの出発時間が近づくと、もう一度たけの留守宅を見てからと思って訪れたところ、丁度、腹痛で薬をとりに帰っていたたけの娘と出会うのです。

 

娘の案内で、太宰はたけとの再会を果たします。運動会の最中だったこともあり、素っ気ない応対で一緒に運動会を見る流れになりますが、太宰は安堵に包まれます。その後、たけと太宰は運動会を離れて、竜神様の桜を見に行きます。そこでの会話の中で、太宰は自らの本質に気づくのでした。

 

私小説というジャンル

旅行記であったはずの『津軽』はここで打ち切られ、一塊の感動を与えて小説は終わります。あとがきのような文章で太宰は、敢えて

私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。

と書いています。これをどうとらえるか、授業でも話題になったと思いますが、どう結論づけたか記憶していません。でも、この話がどこまで虚飾であるかは、あまり重要ではないと思いました。

 

そもそも太宰自身が、その時その時の考えや思いをどこまで書けているのか確かめようもないです。でき過ぎているように思える、たけの娘との出会いやその時の感情も疑問が残ります。でも、たけと再会できたこと、表現の程度の差はあれどたけに会いたいという思いなどは事実に思われました。

 

太宰作品の内、『走れメロス』ぐらいは以前に読んでいましたが、私小説というジャンルは授業で初めて知りました。意図するしないに関わらず、事実とのズレが多少あっても、思いの表現が優先されることは私小説の中では当たり前なんだと、許されたような、警告されたような、感覚でした。

 

これは後に考えついたことですが、誰しも文章を書くときには、大抵の場合、事実かどうかを大事にしつつ、思いが書けたかどうかも大事にします。そんな中、事実を隠して思いを書くことも、思いを隠して事実を書くことも良くあるでしょう。もし事実と思いのどちらも隠さずに文章にしなければいけないと法律で決められたなら、誰も何も書けなくなるだろうなと思います。文章に書くという行為自体、無意識に書かない事実や感情を選んでいるとも言えそうですから。

 

太宰作品その後

太宰作品の印象

授業で津軽を習った後、いくらかの太宰作品を手に取りました。そして、人生に悩み続ける太宰の姿も知りました。もっとも、どこまでが事実で、どこから虚飾なのか不明なことも多く、太宰作品を読んでは、常に共感と否定が混在し、それを許したかったり、許せなかったり、またそれがそっくり反転することもありました。その揺れ動きは、そのまま太宰への興味関心に繋がっていました。ある時には、とても興味が湧くのに、何かのきっかけで興味を失くしてしまう。そんな繰り返しです。

 

注目した作品

例えば『女生徒』(リンク先は青空文庫)。高校時代、新井素子の『あたしの中の・・・』で一人称の文体にかなりの衝撃を受けましたが、後に読んだ太宰の『女生徒』には、さらに驚かされました。女生徒の思考や気持ちを、一人称で軽快にユニークに、小悪魔的にも描いています。また、文脈と関係無さそうな文章を挟みつつ、女生徒の見聞きしているものが感じられるような手法です。日中戦争の最中に書かれたということにも驚きました。全文で3万字余りの短編で読みやすいです。

 

もう一つ、『トカトントン』(リンク先は青空文庫)。私が太宰作品に強い興味を持ったり、急に冷めたりする感覚をそのまま作品にして、嘲笑っているかのような作品です。こちらは、全文で1万3千字程の短編です。太宰は、読者が作品で騙されるのを期待していると考えていた気がしてくる一品です。今回、『津軽』を読み直したとき、終わり近くの「読者をだましはしなかつた。」の文章で、この作品を思い出しました。

 

上記2作品は、未読の人が読むと、きっと新たな太宰作品への興味が湧いてくると思います。太宰と言えば私小説という印象が強い人には、お勧めかも。

 

津軽』を全文を読む

津軽』の全文を読んでみると、授業で習った箇所以外での収穫も多かったです。もっと早くから読んでいたら、旅や旅行の印象が違っていただろうなと思います。高校時代に全文を読んでおくべきでした。

 

旅、旅行と言っても、書き方はさまざまあります。名所巡りの観光、グルメや体験の遊興、歴史や人生の探求、人や場所との再会や再訪、受験や研修等々。何か一つだけを目的にすることもあるでしょうし、いろいろ絡んだもののあるでしょう。そんな旅行の表現も当然さまざまあっていいです。風景の記録、食事、人、思い出、発見…、旅で何を見たか、感じたか。

 

津軽』は、その点、かなり欲張りです。自分の記憶や体験の検証のみならず、地域の歴史、風土、文化についての表記もあります。中には偏見や、大袈裟に思える表現も遠慮なく、いえ、きっと計算して散りばめてあります。断定的に書きながら、はぐらかすのが狡いというか上手いというか。太宰の太宰たるカラーが滲んでいる感じがしました。

 

津軽』は愛と憎しみの汽水域

今回『津軽』全編を読んでの感想、考察をまとめてみます。まず、この作品の背後にある歴史から紐解いてみます。

 

太平洋戦争と『津軽』の考察

津軽』が書かれた時期について、津軽 (小説) - Wikipedia では、

1944年5月12日から6月5日にかけて取材のため津軽地方を旅行する。本書が完成したのは1944年7月末である。

とあります。旅行自体は、太平洋戦争で日本の敗戦色が濃くなっていたとはいえ、まだ直接の本土攻撃をされる前です。しかし、「日本の本土爆撃は1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに、主に西日本を標的とした空襲」( マッターホルン作戦 - Wikipedia より)が実施されていますから、旅行を終え執筆中に日本の本土爆撃が広がっていったことになります。

 

お酒について

日中戦争突入後の1938年(昭和13年)4月、国は「国家総動員法」を公布し、経済活動の統制と戦争遂行、継続の準備が広がります。その中で、国民は自由な物品の売買ができなくなっていきました。日米開戦前の1941年(昭和16年)6月には米も配給制が導入されています。それ以前から、清酒も大都市では切符制となっていたのです。

 

ですから、お酒が満足に入らなくなったはずの頃です。都会と田舎では差があったでしょうが、戦争が長引いた1944年ともなれば、全国でお酒の入手は困難だったと推察されます。しかし、『津軽』では、訪れた家のほとんどでお酒の提供を受けます。それも、かなりの量です。しかも、出される料理の豊富なこと。

 

私の勝手な推測ですが、直接の爆撃が始まり、敗戦色が強まる状況下、少しでも世を明るく見せようとした太宰の演出に思うのです。また、たけと会う運動会の描写

本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵むしろで一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、…

も、同じ演出に思えます。戦前と戦時中で変わらぬ街があるとは考えづらく、「悲しいほど」とは、こうした演出を書かざるを得ない太宰の本心かも知れません。時に太宰は自ら道化役を買って出ることもあったようですから。

「国防上」の話

戦時中に書かれたせいか、『津軽』には「国防上」の言葉が5回出てきます。

例えば、二章の蟹田について、

この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。

あるいは、

深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる。

などです。一方で

十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。

では、話に不要な描写を避けるために「国防上」を使っている気もしました。

締めくくりの言葉

津軽』の締めくくりにはこう書かれています。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

一見、なんとも飄々としているようでありながら、太宰は戦争のリアルな危機感を持ってこの文章を書いた気もするのです。さらに、上でも触れた

私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。

と敢えて書いている辺り、「私は嘘をつかない」と念入りに伝えると疑念が生じると知った上での表現に思うのです。そう考えると、むしろ多くの演出の謝罪にも思えてきます。

 

愛と憎しみの汽水域

全文を読み始め、序章の中にはっとさせられたのが、この箇所です。

数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
 汝を愛し、汝を憎む。

凡そ、自分の中に存在する愛しみも憎しみも、全てはここ津軽から始まっている。だからこそ、故郷を愛すると言えるし、憎むと言っている気がします。ただし、冒頭に書いた通り、ここでの「愛」と「憎」は、激しくぶつかり合うものではなく、一人の中に同居しているのだと思います。

 

愛しむ故郷とは、自分を産み出し育ててくれた場所として分かり易いです。

憎しむ故郷とは、土地を離れても、自分に染み込んで消えない疎ましさでしょうか。

時に愛しみ、時に憎しむ、そんな揺れ動きに感じました。

 

最終章の五章で、太宰がたけと再会した時、気持ちの微妙なすれ違いがあります。再会直後、会話らしい会話を交わせぬままに運動会を見ているのですが、お互い再会して高揚する気持ち抑えられない箇所です。ちょっと長いですが引用します。

 たけは、ふと気がついたやうにして、
「何か、たべないか。」と私に言つた。
「要らない。」と答へた。本当に、何もたべたくなかつた。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食ひたくないんだ。」
 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、
「餅のはうでないんだものな。」と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。」と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。
 私が真面目な顔になつてしまつたら、こんどは、たけのはうで笑ひ、立ち上つて、
竜神様りゆうじんさまの桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。

このずれ。

 

四章、津軽平野では、津軽十三湖についてこう書いています。

水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。

海水と淡水が混ざり合う場所を汽水域と言います。これが、たけを慕うのと畏れるのとが同居する太宰と繋がったのです。汽水域はちょっとした立ち位置で、海水が強くなったり淡水が強くなったり変化します。また潮の満ち引きや、雨の多さで、汽水域部分も揺れ動きます。それでも、海水も淡水も絶えることはなく、汽水域は存在し続けます。そのように太宰の思いも揺れ動きつつ、絶えることがないのだと思われました。

 

故郷への愛しみと憎しみも、同じではないでしょうか。故郷とは、愛と憎が同居する場所であり、時に愛しくもあり、憎くもあり、どんなに離れても切れない繋がりのある場所ーー。

そう思うのです。

 

そんな訳で「『津軽』は愛と憎しみの汽水域」としました。

自分勝手な解釈だろうなと思いつつ、現在の私の結論です。

また「読者をだましはしなかつた。」は本当のところどうだったのか。

その辺り、いつか太宰治に会えた時、質問してみたいです。

 

 

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いつか、国語(物語)の授業(高3)も記事にしたいです。

 

 

今週のお題「会いたい人」