tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

今は亡き母のわがまま。実家に残していたもの

帰省する度に小さくなる母のわがまま少しは聞いてあげたい

 

メモによると、この歌を詠んだのは2000年5月15日。私34歳。母63歳。母に励まされてきた私が、母を励まさなければと感じ始めた頃でした。

 

歌の背景

2000年のGW前、土曜日の仕事を休んで5連休にして帰省できないかと父から電話がありました。母から頼まれてのことらしかったです。当時は土曜日も仕事という職場は多く、それを休まないとゆっくり帰省できる日程になりません。母の帰省して欲しい気持ちが本当だったとしても、そのために仕事を休んでと言う母ではありません。恐らく、父が母の気持ちを考えて私に提案したのでしょう。

 

結局、仕事を休むことはできず、帰省もできませんでした。でも、盆と正月だけだった帰省を、GWも考えてみようかなと考えるきっかけになりました。

 

歌の少し前、母は60歳で定年退職した後、幾つかの仕事に就きました。でも、新しい仕事や職場に慣れるのは難しく長くは続きませんでした。結局、元の職場から応援に呼ばれることが続き、パートの形で働くようになっていました。そんなことも影響していたのでしょうか、帰省する度、見た目だけでなく母の存在感や主張も小さくなっていく感じがして、私にできることがあるなら少しでもしたい、そう思うようになったのです。

 

その後の帰省

洗濯

仕事が土曜日も休みになってからは、可能ならGWにも帰るようにしました。病気で体調を崩し長期に休みをもらった時も、実家に幾らかの期間、帰りました。母は自分が病気で仕事を休むのをずいぶん悔しがっていましたから、私が病気で帰省するとなると責められるかと思いましたが、それは無かったです。むしろ、身体が休めと言っているのだから、しっかり休んだ方が良いと話してくれました。

 

3、4日以上帰省するときには、わざわざたくさんの洗濯物を用意します。1回洗濯機を回しても終わらないくらいの量です。20代の頃、1泊2日で帰省したときに洗濯物は持って帰りませんでした。洗濯しないといけないから早く自宅に帰ると話すと、洗濯をこっち(実家)でしたら1日長くいられるのにと返されました。いつしかたくさんの洗濯物は、数日実家に滞在する免罪符のようになっていった気がします。車で帰るからこそできたことでした。

 

食事

帰省すると、母は決まって「何が食べたい?」と聞いてきました。「ハンバーグ」、「鳥とこんにゃくの炒め物」等と答えることもありましたが、決まったものばかりになりがちなので「何でもいい」と答える方が多かったです。30代前半頃までは、それで問題なかったです。

 

ところが、母が退職した後、「何でもいいじゃ作れない。」と怒った風に言われるようになりました。私が冷蔵庫にある食材を確かめて、「〇〇ならできるんじゃない?」と提案しますが、「作るのが大変そう」と言われ、一緒に作ることが増えていきました。最初は私が手伝いをする感じでしたが、だんだん母の調理がちぐはぐになり、いつしか、私が主で母に手伝ってもらう感じになっていきました。

 

母の認知症が進行し、施設に入居する前の様子を記事にしたことがあります。

帰省した折に私が食事を作ると、母は大抵「美味しい」と言って食べてくれました。

私が台所に立って、母に手伝いを頼むと大抵嫌がらず引き受けてくれました。ざく切りにするところを千切りにしてしまうなどの失敗もよくありましたが、私よりも細く正確な千切りでした。まだまだ手先も大丈夫そうだと声をかけると喜んでいたようです。

母の調理には、もっと小さい頃から手伝っていました。

その気になれば、もっと早くから一緒に調理ができたはずです。今となれば、母の「作り方がわからない」は、私が小さかった頃のように調理を手伝って欲しいという意味だったと思えるのです。

 

母のわがまま

母は「~して欲しい」とはあまり言わない人でした。そんな母のわがままとは「言わないでもわかって欲しい」だった気がします。歌にした「母のわがまま」も、そういう意味でした。

 

帰省して欲しい気持ちを言わず、でも帰省して欲しい思い。私はそれを何度裏切り、何度叶えることができたでしょう。

 

母は私に「家に戻って暮らさなくていい、好きな場所で好きに暮らしていい」と話したことがあります。でも最近、実は「一緒に暮らして欲しい」というわがままだったのかも知れないと思うことがあります。

 

母の晩年、私が誰かもわからなくなった頃に私は仕事を辞めました。それで、母の施設を訪れることが増えました。でもその時は、母のわがままに応えるというより、私が大変だった仕事を忘れたくて、母に会うことを口実の一つにしていた気もします。どこまでが母のわがままで、どこから私のわがままだったのかはわかりません。でも「わがままを言うも言われるも親孝行」との言葉がなるほどなと思えるようにはなりました。

 

母が亡くなってから

そんな母も、2019年12月に亡くなりました。生前、こじんまりとした葬式でいい、新しいお墓もなくていいという願い通りに父は葬儀を行いました。私は少しずつ母のことを忘れてしまうのがどこか不安で、このブログに「母のこと」カテゴリーを作りました。これまでに15の記事を書きましたが、不安が払拭された訳ではありません。

 

そして、早2年が過ぎました。

母の通夜で父と並んで寝たのがきっかけで、父の睡眠時無呼吸症候群がわかり、その治療でCPAPを使っています。実家で父の介護?世話?をしながら過ごすことの方が多くなりました。母から父を任されたような気もします。

 

先日、父との話で、押し入れの奥からずいぶん前の母の家計簿が出て来たと聞きました。毎日ではないものの、時には日記のようなことも書いていたようです。家計簿は父が受け継ぎ、今も続けているのですが、そんなに古くから残っているとは知らなかったとのこと。父もまだ詳しくは読んでいないそうです。

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母の家計簿 1971~1975

全く母には敵いません。高校時代(40年程前の3年分)の映画手帳を残していた自分がちょっと自慢気でしたが、母は50年前の家計簿です。順番がバラバラだったのを並べ直してみると、まだ不明の年もありますが、探せば全部出てきそうな気がしています。

 

今は、骨壺、位牌、遺影など本当に小さくなった母です。でも、黙って残していった家計簿に、私が気づいていない母のわがままがあるかも知れません。私の記憶と母の記録とで食い違いもあるかも知れません。これから少しずつ、今なお、聞いてあげられるわがままがないかを含めて、母の歴史を紐解いてみたいと思っています。

 

 

今週のお題「わたしの実家」

今週のお題「手帳」