先日「赤いもの」のお題で取り上げた『赤とんぼ』も秋の歌でした。
今回、取り上げる唱歌『もみじ』は、まさに「秋の歌」にぴったりです。この歌も著作権は切れているので全歌詞を紹介します。
『もみじ』
作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一
1.秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は
山のふもとの 裾模様
2.渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波に揺られて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦
以下、私の思うこの歌の魅力を述べます。
※ 尚、歌詞の意味を考えたのは高校時代よりずっと後のことです。
起承転結
自然の情景自体は動かないはずですが、視点の移動が情景に動きを着けてくれます。
1.夕空に、遠くから眺めて山の紅葉に気づきます。
2.色づきを細かに見ます。
3.山に残る緑(松)も紅葉に覆われています。
4.山の上は紅葉に、麓は緑と紅葉が混じった、山の全体像が見えます。
続く2番では、紅葉狩りに訪れたのでしょうか、山の谷の情景が描かれます。
5.谷川に散った紅葉が流れているのを遠くから見ています。
6.谷川に下り、川の波に揺れる紅葉に気づきます。
7.それは赤や黄色と色とりどり。
8.今ここで、川下へと続く錦が織られているのだと、自然の営みに感動します。
私の勝手な解釈ですが、一つの情景を眺め、それを細かく見て、もう一度全体を見直して、何かに気づき直す。1番にも2番にも、起承転結のストーリーがあります。
距離感
1番は、多分、一つの場所から見ている歌だと思います。でも視点が変わるだけで、距離感が違ってくる感じです。歌が発表されたのは1911年(明治44年)とのことですが( もみじ (曲) - Wikipedia より)、望遠鏡やドローンを使って見ているような感覚。
2番は、見つけた渓谷に入り、川の間近で見て、流れる先を目で追っている感じ。近づいた、遠くを見た、そんな言葉に頼らず距離や移動を感じ取れる表現。圧倒的です。
ドラマ性
1番の「裾模様」が2番の「織る錦」に見事に繋がっています。遠くから裾模様に見えたのは、絶え間ない自然の営みが錦を織っていたからと種明かしされているよう。
無粋な話をすれば、もちろん、川の流れで山の裾模様ができているわけではないです。そうではなく、総体として秋の深まりが、裾模様を作り、錦を織っているというドラマに感じられます。
音楽性
『もみじ』は輪唱や二部合唱でも有名です。変化に富む楽曲は、歌詞を借りれば「音の錦」と言えそうです。
小学校の音楽祭だったかで歌うパートが変わる場所、しかも中央寄りに配置され、音楽音痴な私はかなり苦労した記憶があります。まだ自分の音痴に気づいてない頃で、どんなパートで歌っているかも気にせず、とにかく大きな声で歌うことを大事にしていました。すると、歌の合間に周囲からは音がずれていると非難が集中。でも、先生からはその声の大きさが良いのですと言われました。
声の大きさは良いとしても、音のズレはよくわからず直しようもなく、直ったかどうかもがわかりません。結局、私の声がかき消されるくらいの音量になって、先生は納得したように憶えています。先生は、私の歌唱力を過大評価したのか、上手く利用したのか、本番の記憶はありません。でも、輪唱と二部合唱ができる歌として強く残っています。
紅葉を見る機会、触れる機会
大人になってから、紅葉を見に出かける機会は間違いなく増えました。なのに、紅葉で思い出すのは子どもの頃のことが多いです。何故でしょう。そんな風に思うのは私だけでしょうか。
遠くまで出向いて見た紅葉の景色は確かに奇麗なことも多いのです。でも、前に観た景色より奇麗かどうかとか、もう少し日差しがどうとか、周りの人出がとか、気になることも多く、紅葉を見に来たのではなく、比べに来たのかと自戒することがあります。
一方で、紅葉を見るつもりはなくても、日常で山を走り回ったり、いちょう並木の下を歩いたりして否が応でも紅葉が目に入った子どもの頃。
遠目にきれいに見えた落ち葉に近づいてみるとシミや汚れ、虫が目についたこと、拾おうとしたきれいな葉が露に濡れて冷たかったこと、踏むとかさかさと耳にこそばゆかったこと、歩いていて積み重なった落ち葉に滑りそうになったこと、そうした記憶と一緒に思い出されるのは子どもの自分です。
唱歌『もみじ』のある場所
『もみじ』は、そんな子どもの頃と、大人になってからとの中間点に、ずっといてくれます。それは、子どもの頃に知ったこの歌に描かれている紅葉の美しさを大人になって求めているからかも知れません。
今週のお題「秋の歌」