石川啄木の『一握の砂』と言えば思い出す歌は何でしょう?
え?興味ありませんか?
そう言わずに1000字程お付き合いください。
百人一首でさえ数首しか記憶していない私。 一握の砂 - Wikipedia によれば、551首ある『一握の砂』の歌を全部丹念に憶えるなんてできるはずがありません。それでも、憶えている歌は百人一首のどの歌より強烈です。
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり
秋だったか高3の下校時に一人で砂浜までサイクリングをしたように記憶しています。
記憶が確かかどうか自信はありません。
ただ、この短歌を思い出して、砂浜に「大」という字を書いたのは間違いありません。
どうして石川啄木が「大」の字を書きながら死のうと思ったのか、また、どうして死ぬことをやめたのかずっと疑問でした。
死のうと思うときに果たして大の字を選んで書くでしょうか。
啄木の思いに近づきたくて、何回も何回も「大」と書きました。
そうする内、気づいたことがあります。
啄木は「大」の字ではなく「一人」と書いていたのではないか?
以下、私の勝手な読みです。
誰もいない砂浜に啄木一人。
この上もなく孤独だと思い詰めて砂に「一人」と書く。
一人だから死んでも誰も気にしないだろう。と「一人」。
一人死んだからといって、世の中変わらないだろう。と「一人」。
そんな風に、まさに今ここで一人きりで死んでやろうと
「一人」、「一人」、「一人」、「一人」、「一人」…。
何十回となく書き続けている内にふと気づく。
「一人」と書いて「大」の字になることに。
一人を思い知る程に自分が小さくなると思っていたのに、
逆に大きくなるのだと教えられた気がした。
何という矛盾であろうか。
「ふふん。」
ほんの少し笑ってしまう。
可笑しくて今度は「一人」と言いながら「大」の字を書く。
「一人」、「一人」と言いながら「大」の字が増えていく。
いつの間にか砂に「大」の字がたくさんとなり、それが可笑しくて死ぬ気も失せた。誰か、このことに気づくだろうか?と密かな楽しみも託し歌にする。
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり
最初は「一人」と書いていたが、それも合わせて「大」の字にしておこう。
大それた読みでしょうか。一人善がりの読みでしょうか。
でもこの短歌は、今なお私にそう話しかけてくれてる気がするのです。
-----------------------------------------
<余談 幼い頃の近くの砂浜>
2年前程に書いた記事です。さすがに記憶違いだと思いますが、4,5歳の頃に家から約2km離れた砂浜まで一人で歩いた記憶があります。この海には隣の街に引っ越した後も高校時代まで時折、自転車で行っていました。
高校生になって、登下校でお気に入りの緑の自転車を乗るようになってから、帰りの寄り道にずいぶん遠回りをすることもありました。そんなある日、一人気まぐれに、K海水浴場のいつもの堤防へ海を見に行ったとき、その不思議さがようやく理解できたのです。その瞬間、全身総毛立ちました。
私にとって一番身近な海です。砂に大や一人の字をたくさん書いたのもこの砂浜。
この海には他にもいろんなことを教えてもらいました。
また機会があれば書きたいです。