tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業21.餓死した裁判官と五輪ダブルスタンダード

餓死した裁判官の話

「間違った法律でも守らないといけないか。」

政治・経済の授業で、先生は難しい顔をして、法を守った末に餓死した裁判官の話をしてくれました。敗戦直後の食糧難で混乱していた時代、当時の食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ、栄養失調で餓死した裁判官がいました。配給食糧以外の違法な闇米を拒否し続けた結果です。

 

先生は間違った法律でも守らないといけないかについての答えは出さず、間違った法律を作らせないことを主権者である国民は目指さないといけない、そんな話で締めくくっていました。

 

省エネルックを見せてくれたクールで熱い先生でした。

この記事を書いたときは今一つ記憶に自信がなかったのですが、省エネルックを披露してくれたのも、餓死した裁判官の話をしてくれたのも政治・経済の先生です。

 

高校時代には餓死した裁判官の名前は憶えていませんでしたが、インターネット普及後に山口良忠(やまぐち よしただ)さんの名前を知りました。

 

コロナ禍の今、思うこと

こんな話を思い出したのは、ここ最近のニュースについて考えることがあったからです。「間違った法律を作らせないことを主権者である国民は目指さないといけない」とは、「誤った方針と思うなら、その考えを述べる」ことだと思い直しました。ですから、貧弱な私の一意見として以下述べます。

 

緊急事態宣言もまん延防止等重点措置も法律ではないことも承知していますが、飲食店の酒類提供自粛とオリンピックの酒類提供の話が同じ政権から出ました。丸山五輪担当相の「大会の性質上、ステークホルダー(利害関係者)の存在があるので組織委はそのことを念頭に検討される」との発言がどうにも不可解で不愉快に思えたのです。(もっとも、五輪での酒類提供は避けられました。)

 

また、私も一読者になっている、ふぇでらお federao (id:yoshimor) さんの記事にも影響を受けました。

yoshimor.hatenadiary.jp

 

酒類提供条件付き解禁と言うより、自粛の一部緩和

沖縄県を除き緊急事態宣言は解除されました。でも今、酒類の提供が条件付きで解禁されたと言えるのでしょうか。実質的には、完全自粛の一部緩和程度でしかないと思います。一方で、補償金は滞っていて、経済的な支援は得られていない状況です。

 

酒類の提供を前提にした多くの店舗では死活問題に直面していると思います。わずかな緩和でどれだけの収入が期待できるというのでしょう。その現状を見て、全然足りない配給食糧だけの生活で餓死した裁判官が思い出されてしまうのです。

 

コロナ禍にあって、酒類提供の全面解禁が困難なのは理解できます。でも、補償金を出すと言って後手後手になっている政府や自治体の姿は、必要な配給をするといって十分な配給せず裁判官を餓死させたあの時代とよく似た状況に思えるのです。

 

要請を真面目に受け止める人ほど損をする。

これは、酒類提供をしている店だけの問題ではありません。

誤った方針と思うなら、その考えを述べる主権者としての問題でもあると思います。

 

民主主義の時代に、安心安全の最優先を謳わない政権はありえません。問われるべきは、今しようとしていることが国民の安心安全を最優先できているかの検証でしょう。

 

オリンピック開催も同じ

開催するなら無観客との提言は一研究者の意見かどうかが問題なのではなく、提言が国民の安心安全に近づくものかどうかの検討のはずです。

 

懸命な努力を続けるアスリートを応援するのはある意味当然です。限られた条件やルールの中でも活路を見出そうとすることは今誰もがやっていることでしょう。非常事態だからアスリートは活路を断てと誰が言えるでしょうか。

 

一部で、選手を応援しつつ、五輪開催を避けよという人をダブルスタンダードと批判する論調があります。でも、飲食店を応援し、三密を避ける論調が当たり前なように、選手を応援しつつ、危険を避けたいと考えるのは当然だと思います。

 

「人類が(コロナに)打ち勝った証として来年の東京五輪を完全な​形で開催する」という無責任な発言には今もって腹立たしさを感じます。詭弁です。何故、東京五輪を完全な​形で開催することがコロナに打ち勝った証になるのでしょうか。そしてその妄言を今なお受け継いで語ることにも疑問に感じずにはいられません。

五輪を縮小しての開催であろうと、延期・中止であろうと、人の命を守り抜くことができて初めて人類がコロナに打ち勝った証となるはずです。

 

「開催してみなければわからない。」、「開催して何も問題が起きなかったらどうする?」そんな話ではないです。今は安心安全のために、人類がコロナに打ち勝つために優先すべきことは何かのはずです。まるで五輪開催ができなかったら人類が敗北するみたいな論調に、多くの命や安全安心を委ねる必要はありません。

 

ワクチン接種だって同じ

ワクチン接種について同調圧力が問題になっています。一方でワクチンに関するデマや恐怖心が広がっています。

ワクチン接種は、「接種が望ましい」として展開されていますが、つい勢い余って実質強要になっている例も聞きます。

それだけ関心が高いということでしょう。

では、「一日三食摂るのが望ましい」ならここまで先鋭化した意見になるでしょうか。

 

強要された感が強すぎると、安心安全なはずの接種も、体調不良につながることが増えます。一部での死者や副反応があるのは事実ですが、それを否定するのも、ことさら煽るように主張するのも、正しく事実を反映していないと思います。

冷静に判断しましょう。

 

今大事なのは、接種したい人、したくない人、両者の安心であり安全です。接種した人がどんどん増えれば、社会の安心安全が得られるという話です。接種したくない人のためにも、希望している人の接種を増やすことが最優先だと思います。

 

いつの時代でも、人の命や安心安全より優先されるものがあってはいけないはずです。

場合によっては医療現場や家庭等で、誰かの命の確保や安心安全のために命を賭さなければならないことはあるかも知れません。でも、詭弁を使ってでも利益や名誉を得ようとする人のために命を落とすのは嫌です。

 

誤った方針の下、その方針に忠実であったゆえに餓死した裁判官山口良忠さん。

誤った方針だと思いつつ、受け入れるしかないのはなんともやるせないです。

そう思って、今回敢えて記事にしました。