まずは、俳句そのものを特に勉強したわけではないので、所詮は私の勝手なイメージとして、以下お手柔らかに見て欲しいです。
いつからか、俳句は季節に合わせた絵手紙だというイメージができました。
- 一つは、575では、写したい物の全ては入り切らず、どうしても伝えたいことの取捨選択が必要だということ。
- もう一つは、入り切らない世界だからこそ、何を伝えたいのかを明確に絞る必要があるということ。
俳句に詳しい人からすると、まったくの見当違いかも知れません。
眺めている句
中学の授業で季語を使った俳句を作ってみましょうとの課題で作った句がずっと頭に残っています。
「北風にまかれて飛び散る菊の花」
多分、初めて作った俳句です。他の生徒から「おぉ~。」「きれい。」「秋の終わり。」なんて言葉ももらって、悦に入っていました。一方で先生の顔がとても複雑だったのが変に記憶にこびりついています。何か言いたかったのを止めたのでしょうね。
後になって再考してみると、思いっきり季重なりだし字余りだし、俳句と言えるのかもわかりません。遠くから菊の花が散るのを見ているという感じです。いえ、見ているというより眺めてる感じです。
絵手紙の講習
絵手紙の講習を受けたのがいつだったか定かな記憶はありません。
でも、そこで学んで記憶に残っていることが二つあります。
- 俯瞰した全体の絵ではどこを見て欲しいかが伝わらない。
- 絵が葉書からはみ出してもいいが、見て欲しい部分は明確にする。
遠景と近景との違いを意識することでメリハリがつくという意味に捉えました。
それを活かして同じ句を二種類の絵手紙風にしてみました。
全体が見える
まずは全体が見える作品。
一部分に焦点を当てる
続いて、見て欲しい部分を絞った作品。
一部分だけが見えていると、自然に全体はどんなのだろう?と思いが巡り、結果、その人だけの映像がその人なりに頭に描かれるという訳です。思考を促すという点で、細かい部分は読み手に任せるという点で、有効な気がします。
句の意図
見て欲しかったのは茄子のふっくら加減です。となると、色の濃淡が伝わる部分を切り抜いた方が良いと考えました。また、茄子とわかるようヘタも入れたいところです。
既にお気づきの方もいるでしょうが、同じ句に添える絵を変えただけです。俳句は言葉での勝負ですから、どんな絵を添えると良いかを考えるのは俳句の本質から外れています。意図としては、放置していた茄子がそれなりに実って感心していること表現したいのですが、どうしたらじっくり見ている風になるのか、いい言葉が浮かびません。
同じ言葉を使った俳句でも、作者の意図の伝わり方は読み手によって違ってくると思います。逆に言うと、詠み手には全体を見ている俳句と、一部分に焦点を当てている俳句で、言葉を変えられる語彙力や感性が求められると思うのです。
でも、その語彙力や感性が私には無いので…
また、絵だけで説得できる程の画力も無いので…
そもそも、自らの句に解説をつけること自体を疑問に思いつつ、
絵手紙風にした次第です。
まだまだです。
まぁ、今の時期、なすには早過ぎるのですが、なさぬよりはいいかなと。
今週のお題「575」
※ 下書き段階で誤って公開してしまいました。自責の念でその旨記しておきます。