11月25日、ディエゴ・マラドーナの訃報を知りました。60歳とのこと。何とも早い逝去に思えます。私とわずか5歳違いというのにも少ながらず驚きました。
良くも悪くもマラドーナ
1986年サッカーワールドカップ(以下、W杯)、アルゼンチン代表としての活躍が一番印象に残っています。でも当初は、良くも悪くもサッカー、良くも悪くもマラドーナ、そんな感じでいました。
有名な「5人抜き」(神業)と「神の手ゴール」(悪質な反則)を一つの試合でやってのけ、どちらも英雄のエピソードとして語り継がれるなんて、普通はありえないです。
でも、どちらか一つのエピソードが欠けても、「神の子」といわれることはなかったように思います。
- 良くも悪くもマラドーナ
- 思うような判定を引き出す狡さもテクニックか?
- 日本に足りないのはマリーシア(ずる賢さ)?
- 「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする」
- サッカーというスポーツの成熟
- マラドーナという道標
思うような判定を引き出す狡さもテクニックか?
私が中高時代に学校のサッカークラブに所属していたこともあって、正直なところ、当初は彼のプレーに「サッカーが上手ければ、反則も許される」的な風潮を感じ、他の人がべた褒めするのには疑問がありました。
思うような審判の判定を引き出す狡さもテクニックになるのかどうか、そんな疑問がぬぐえなかったのです。
練習試合などでは、時に部員が線審(ラインズマン)が引き受けることもありました。ボールが完全にラインを超えたかどうかの判定とオフサイドの判定が主な仕事ですが、これが思うほど簡単ではありません。ゴールラインと並行な視点を持ったまま、タッチライン上でキーパーを除く守備の最後尾と同じ位置にいる必要があります。まずこれが大変。でもそうしないと正しく判定できないのです。
さらに、パスが出た瞬間の位置が大事。攻撃陣は絶妙なタイミングで走り出しますが、パスが出た瞬間に相手守備陣の最後尾よりゴール寄りの位置かどうかでオフサイドの成立が変わります。
ボールも人も常に動くのですから、そう簡単な判定ではありません。
線審をするときには、ひたすら正確に見ようとしました。
ところが、いざ守備の選手として試合に出るとなると、相手選手の裏をかいた位置取りが重要になります。ぼんやりした位置取りだと逆に裏を取られて、ロングパスから一気にゴールを奪われる危機になってしまうことも。
ですから、線審はそうした選手の駆け引きを予想しておかないと、置いてけぼりを食らってしまいます。しかも、ゴールしたかどうかを正しく判定するために、ボールより早くゴールラインの位置にいる必要があります。そんな線審に、ハンドがあったかどうかまで見極めるのは、容易ではありません。私の場合、主審にほぼ一任でした。
そんなわけで、フェアプレイは選手に課された義務に近いイメージが強く、「神の手ゴール」には、抵抗を感じていたのです。
日本に足りないのはマリーシア(ずる賢さ)?
ところが、1993年のドーハの悲劇で日本代表は初のW杯出場を逃します。後に、その大会で優勝したブラジルと親善試合で対戦し大敗しました。
試合後、ブラジル代表のキャプテン、ドゥンガの言葉が衝撃的でした。
「日本代表はテクニックもスピードも申し分ない。足りないのはずる賢さだ。・・・
足りないのはマリーシアだ。サッカーで一番必要なことなのに、日本ではこの言葉はあまり聞かない。日本の選手には相手をだますような技術や戦術、心の余裕がない。」
今でも時折、この「マリーシア」の意味について話題になるようです。「ずる賢い」と訳されることが多いですが、「狡さ」「汚さ」と似た意味でとらえられることもあります。
ともすれば、審判にバレなければ何をやってもいいといった感じで捉えられることもあるようですが、私は少し(気持ち的には大いに)違います。
スポーツは審判に判定してもらうためにプレーするのではなく、勝つためにプレーするのが大前提。勝つために精一杯のプレーをするのが選手、そのプレーの是非を判定するのが審判です。
完全な選手も完全な審判も存在しません。
常に精一杯のプレーと、精一杯の判定で試合が行われるのです。
そのせめぎあいが、競技としての質と魅力を高めていくのはないでしょうか。
そんなイメージになっていきました。
「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする」
サッカー日本代表監督もつとめた岡田武史の話で知った言葉です。サッカーが、小さい頃から夢中になれて、人と繋がり、競争していく中で、大人となり、さらに紳士として成長できるスポーツだという意味だと思っています。特別サッカーに限った話ではないとは思いますが、サッカー史を少しかじれば、その辺りは納得できるところ。
でも、マラドーナは、ずっと子どもであり続けた稀有な選手のように思えてなりません。後先を考えず考いろんな言動がありました。
類まれなプレー技術で、13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念。アルゼンチンのリーグ史上最年少の15歳11か月で出場し、程なくプロ初ゴール。20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場。
クラブの優勝や得点王、最優秀選手と華やかな経歴を残す一方で、所属クラブの財政状況の悪化や、夜遊び、コカイン使用疑惑で批判を浴びたり、乱闘騒ぎを起こしてスペインリーグの3か月の出場停止を受けたり。
イタリアに渡っても、華やかな功績とトラブルは続きます。所属クラブ、ナポリの二冠達成やW杯での活躍をしながらも、結局イタリアリーグでも長期間出場停止処分を受けます。
しかし薬物使用は長く続き、94年のW杯では追放処分になり、その後入退院を繰り返すまでに。でも2008年にアルゼンチン代表監督に就任、2010年のW杯でベスト8まで進みました。
光と影のコントラストが強く、彼ほど数多の名声と汚名を併せ持つ人はいないでしょう。紳士になることなく、サッカーに熱狂する子どもであり続けたのがマラドーナのイメージです。
サッカーというスポーツの成熟
私にはサッカーというスポーツ自体も、”子ども”から”紳士”になったイメージがあります。
80~90年代はまだ、勝つこと、名声を得ること、熱狂することが優先される、つまり分別のない”子ども”のようなスポーツだったと思うのです。W杯予選では、敵国の練習場に釘をまくなどサッカーではアウェーの洗礼は当たり前の話に思えました。Jリーグ発足後もサッカーファン、サポーターの在り方が度々話題になりました。成績の不甲斐なさに怒った過激サポーターが選手を乗せたバ取り囲んで閉じ込めたり、98年W杯(フランス大会)に初出場したものの全敗した日本代表チームが空港で水をかけられたりしていました。サッカーファンは怖い、野蛮というイメージを持っていた人も少なくなかったと思います。
2002年の日韓W杯では、フーリガン対策が注目されました。でも、それほどの騒動も起きなかったように記憶しています。そして、この頃からサッカーの観客はそれほど怖いものではないというイメージができてきたのではないでしょうか。そして、それは全世界的な広がりになり、少しずつ”大人”になり始めた気がします。
以前なら、サポーターの暴動がよくニュースになっていましたが、最近ではマナーの良さもニュースになります。試合後にスタジアムのゴミ拾いをするサポーターの姿が世界でも話題になりました。
こうしたサポーターの流れを見ても、”大人”から”紳士”のスポーツとして成熟してきたと思います。「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする」は、選手だけではなく、サポーターにも通ずることと言えるでしょう。
マラドーナという道標
かつて、人々はなりふり構わずサッカーに熱狂していました。マラドーナはその象徴であったように思います。あの時代、サッカーの面白さを余すことなく教えてくれた選手の先頭にいてくれました。実際、マラドーナに魅せられて、サッカー選手を目指した人は多いでしょう。
一方で、マラドーナの選手としてあるまじき行為の数々は、黙認されていた感もあります。しかし、今振り返れば、どんなに上手い選手でも、あるまじき行為は批判されるということを教えてくれたようにも思うのです。それは、マラドーナが子どもであり続けたからこそ、選手として大人や紳士になる大切さに気づけたと言えるかも知れません。
サッカーの理想「5人抜き」と課題「神の手ゴール」を一試合に見せてくれました。それは光と影の強いコントラストのままの人生と重なって見えます。恐らく、彼のような選手は二度と出てこないでしょう。でもそれ故に、サッカーというスポーツ史の中で道標として存在し続けるように思うのです。
マラドーナ、サッカーの魅力をありがとう。
安らかにお眠りください。