本当は8月6日に仕上げたかった記事ですが、書き進める内に内容が多岐にわたってしまい、とても長くなってきたので前編・後編に分けることにしました。
知るということ
8月6日は何の日?
8月6日は「ハンサムの日」らしいです。2008年公開の映画『ハンサム★スーツ』の宣伝をかねて制定したそうです。映画公開終了後も、時折ネットなどで「ハンサムの日」が話題にされているのを見かけます。でも、8月6日を何だか軽く扱っているように思えて、素直に受け入れられない気持ちがあります。
「ラッスンゴレライ」で一気に人気を集めた8.6秒バズーカは、コンビ名の8と6がネットで憶測を呼び、話題になり、人気を失速させたとの話も聞きます。実際のところ、噂がどこまで本当だったのかは知りません。でも、コンビ名と8月6日を無理矢理こじつけて話題にしたように思えて、それをそっくり受け入れられない思いがあります。
初めての広島
8月6日は私にとって、広島原爆の日、「広島原爆忌・広島平和記念日」です。
高校2年になる春、友人と二人で訪れました。
広島城やお好み焼等も気になっていましたが、それは封印して、広島の目的地を原爆ドームと広島平和記念資料館に絞りました。
中学の修学旅行で長崎原爆資料館に訪れていましたし、漫画『はだしのゲン』(中沢啓治)も読んでいましたし、授業やテレビその他で、原爆についての知識はそこそこあるつもりでいたのですが、一つ一つの資料や展示物に息をのみました。一緒に行った友人はカメラを持参でしたが、思うところがあったらしく撮影をやめました。私も観光気分の方が強かったことに気づいて反省し、友人に何も言えなかったように憶えています。
私と戦争
何がきっかけだったか、戦争に興味を持った私は、小5の頃には戦艦や空母、戦闘機名や軍人の階級等も憶えていました。どこでどんな作戦や戦闘が繰り広げられたかや、元軍人の戦記物なども好んで読みました。図工の授業で戦艦を描いたこともあれば、お楽しみ会で戦記物の紙芝居を作ったりもしました。
戦争映画なら反戦的、好戦的にこだわらず観ていましたし、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』にものめり込んだタイプです。
『U・ボート』もそんな中で観た作品です。
この記事の中で
戦記物に「戦争はカッコイイものなのか?」という問いかけを見かけた時、内心で「戦争はカッコイイとは思わないけど、強いのはカッコイイ。」と答えていたのも憶えています。
と書いていますが、そんな感じの少年でした。
広島と核兵器
そんな経緯もあったからでしょうか、振り返ってみれば、原爆ドームと広島平和記念資料館は、平和を考える大きな分岐点になっている気がします。映画やアニメ、戦記物では知り得なかった原爆被害を目の当たりにして、戦争の観方が変わったのだと思います。
アメリカとソ連の東西冷戦が加速して核兵器開発競争をしていた頃でした。(1984年には世界中の核兵器保有数は6万超、2020年1月では13,400)世界中で増え続ける核兵器に警鐘が鳴らされ、核兵器廃絶の声も高まってきていたように思います。いつ起こるかも知れない核戦争に不安を持つようになりました。
平和と沈黙
大学で原爆パネル展を準備するときだったか、広島出身の後輩から「白黒の原爆の映像を見るのは恐いから嫌だ」と聞かされ驚いたことがあります。広島、長崎の人は、誰もが原爆に対しての怒りや憤りを強く持っていて、その惨劇を広く世に伝えたいと願っているという思い込みが、私にあったことに気づきます。
去年、広島の病院を舞台にした漫画『看護助手のナナちゃん』(ビッグコミックス連載)にも似たエピソードがありました。
戦争や核兵器は無くした方が良いに決まっている、だからみんなで反対の声を上げなければならない--。
一片の疑いもなくそう思い込み、平和賛美を強要するのは危険だと思います。それは、戦争賛美を強要したあの時代と同じ気がするのです。平和は押し付けるものではなく、納得の上に成り立ってこそ、真価を発揮するのだと思うのです。だからこそ、難しく、だからこそ、大切な取り組みだと思います。
被爆者に偏見のまなざしを送る人がいる中で、被爆した事実を隠し、二度と見たくない惨劇を夏が来る度に映像として見せられる時代が平和と言って良いのか疑問があります。
かつて東日本大震災で原発事故が起きたときに、事故のあった場所から人や物の移動を拒否する言動はあちこちでありました。現在、コロナ禍にあって、同じ町に住む人がPCR検査で陽性の人が出たとなれば、大騒ぎになり、その人の情報を晒して誹謗中傷が始まる。県外ナンバーの車を見かけると車に傷をつけたりあおり運転を仕掛けたりする。そんなことがニュースになる日本です。
沈黙するしかない人を追い込み非難するのが平和的だとはとても思えません。沈黙している人が平和を乱しているのではなく、沈黙させてしまう世が平和でない証だと思います。
確かに戦時中に比べれば今の世は平和なのでしょうが、沈黙せざるをえない人がいる横で平和でよかったと喜ぶのもどこか違う気がします。もちろん、沈黙を破らないと平和にならないというのではありません。もう話さなくても大丈夫だと安堵することも平和な形だと思います。
そう考えて行くと、沈黙を破って自らの被爆経験を語る人は、そうした苦悩を乗り越えてのことでしょう。本当に頭が下がる思いです。
何度目かの広島で
その後も幾度か広島を訪れたことがあります。1995年(50周年)には、8月6日に行われる世界大会にも参加しました。
1981年から始まったダイ・インがこの年もありました。これは、自由参加らしく、するしないは本人任せだったように思いますが、もちろん参加しました。公園の端っこで、トイレ近くの石畳だった気がします。8時15分の合図とともに地面に伏せました。
地面は思いの外冷たかったような。人は結構多く思い思いの方向に伏せていたような。
身体を動かすわけにはいかないので、視界に入る範囲をちらりと見た限りの話です。
フィールドワークがあって、案内してくれる人について歩きました。うだるような暑さで、ぼうっとなってしまい、どこをどう歩いたか、どんな話だったかあまり憶えていないです。小高い丘?から港を見下ろしたような、大きな倉庫のような建物を見て回ったような。汗かきなので、タオルで拭いても汗がおさまらず、服はもちろん、もらった資料まで濡らしてしまったことは憶えています。
大変だった思いはありますが、原爆を落とされたあの日、逃げ惑う人々の大変さとは比べ物にもならなかったはず。そんなことを考えていました。
平和公園の木陰で語り部さんの話も聞いたと思います。でも、詳しい内容は憶えていません。現実だったのか、夢だったのか、別の機会に聞いたことか、テレビで観た記憶なのかもあいまいです。情けない話です。
自分も何かしなくてはと思って50周年の節目の8月6日に広島で平和行動に参加したはずなのに、自己満足だけで終わった気もします。
沈黙する意味、沈黙を破る意味
平和な時代と言われる今でも、何も知らずに、或いは知っているつもりで沈黙している者が圧倒的多数を占めていると思います。多分、まだ私もその一人。知ったつもりになっていても、資料館で現実の一端を知って息をのみ、フィールドワークに参加しても記憶に残せず、語り部さんの話を聞いたことすら曖昧な私です。
一方で、人生で拭うことができない原爆被害に遭ってなお、沈黙を選ぶしかなかった被爆者もいます。忘れたくても忘れられない。わかって欲しいと思いつつもわかってもらえそうにない。そんな苦悩が75年も続いている人もいると思います。
沈黙するという行為は同じに見えるかも知れませんが、その動機は真逆です。沈黙するしかない少数にとって、何も知らずに沈黙している圧倒的多数は、脅威なのではないでしょうか。原発事故、コロナ等で、偏見や差別のニュースを知れば、尚更、沈黙を続けなくてはいけないと感じるのではないでしょうか。
沈黙を破るのは、誰かを責めるためでなく、誰もと繋がるためであって欲しいと思います。願うべきは、圧倒的多数を占める知らずにいる人が、知ることによって沈黙を破り、沈黙しなくても安心できる世にしていくことだと思います。
未だ、知らないことが多く無力な私が言うのもおこがましいですが、もっと知らなくては、そして人と繋がるために沈黙を破らねばと思うのです。
次回「tn29.75回目の終戦記念日、平和と沈黙(後編)受け継ぐということ」へ続く
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<余談1 他にもある8月6日は何の日?>
8月6日は、広島原爆の日、ハンサムの日、以外にもあります。
World Wide Webの日
1991年のこの日、計算機科学者ティム・バーナーズ=リーが、自身が開発したWorld Wide Web(WWW)に関する情報をインターネット上に公開し、世界初のWebサイトhttp://info.cern.chを開設した。
雨水の日
東京都墨田区が1995年に制定。
墨田区では、区役所・両国国技館・江戸東京博物館等区内の公共施設で雨水を有効利用している。1994(平成6)年のこの日、墨田区で市民主体による世界初の雨水利用国際会議が開かれたことに因み、翌年の雨水フェアでこの日を「雨水の日」とすることを宣言した。
太陽熱発電の日
1981年のこの日、香川県三豊郡仁尾町の電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電が行われた。
しかし、この場所は日照量が少なく、最大出力が2000kWと、実用になる程度の大規模な発電ができなかったため、この発電所での実験は1985年に中止された。
ハムの日
「ハ(8)ム(6)」の語呂合せ。
<余談2.ダイ・イン>
広島の最初のダイ・インを企画した人の話。最初のダイ・インは、1981年。
ダイ・インて何?という人にも読んで欲しいです。
私のダイ・インもここと繋がっていると思うと、少しは思いを受け継いでいたのかもと、嬉しくなりました。
また、立場は違っても、それを超えて繋がり、広がる話に、胸を打たれました。