tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業17.たまたまの「十六夜日記」と「蜻蛉日記」の話だけれど

高3の時のクラス担任は古文の先生でした。

 

 

古文の授業のこと

正直、古文は英語の次に苦手で、学習にもかなり苦労していました。でも、苦手でも嫌いでは無いと思うようになったきっかけがあります。授業中、「古文の中には、どんな日記がありますか?」といった質問でした。

 

確か、授業自体が早く終って、終了の合図を待つ隙間時間。席の順に答えを聞いていたように思います。

私は一巡目に(多分)「十六夜(いざよい)日記」と答えました。程なくクラスでは知っているのが出尽くしたようで次々に「知りません」「わかりません」の返事が続きます。

そして、二順目が来たとき(多分)「蜻蛉(かげろう)日記」と答えました。

その時「よく知っているわね。読み方も。」との言葉をもらいました。

 

ただ、それだけのことです。

日記の名前も読みも、たまたま知っていただけに過ぎません。

 

十六夜(いざよい)

十六夜は月の名前に興味があり、何かの本で読み方を知りました。詳しくはまた別の機会に書こうと思いますが、月の名と暦は突っ込みどころが満載です。今もって、何を満月というのか、月齢の数え方など、私にとってあいまいなことが多いです。

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十六夜のイメージ

unicさんによる写真ACからの写真

 

蜻蛉(かげろう)

蜻蛉の読み方も昆虫の本の端っこにあった話だったように思います。普通はトンボと読むが、例外があり、その一つが「蜻蛉日記」だとのこと。昔はトンボとカゲロウがきちんと区別されていなかったとかなんとか。

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カゲロウのシルエット

tomotomo3858さんによる写真ACからの写真

 

古文への興味

実は「十六夜日記」も「蜻蛉日記」も、今も中身は知らないままです。

でも、先生からの褒め言葉が余程嬉しかったのでしょう、授業でその名を答えたことはずっと憶えています。そして、古文から逃げ腰だった私に少しやる気と興味を与えてくれました。成績が急に上がったわけではないです。思わぬ場面で古文が出てきたときに見なかったことにしていたのが、とりあえず見るようになりました。その程度。

 

百人一首

それまでゲームのカードでしかなかった百人一首かるたを引っ張り出し、あれやこれや勝手な解釈で遊んだのも、この頃からだったように思います。でも、本来の解釈とは違うので、それが良かったのか悪かったのか。落語好きだったことも影響しています。

古文を使ってみた

徒然なるままに日ぐらしすずりにむかいて・・・

徒然草

ここのブログ名「tn198403s 高校時代blog」は、

 turedure narumamani 198403月に sotugyou した私の高校時代を綴るblog の略称です。

もっとも、「徒然なるままに」は、他にも見かける文言なので、このブログ特有という訳でもありません。

 

自作の短編小説の中で、古い神社から現れた守り神に「いとおかし」とか「そんなことありおりはべりいまそがり」とか喋らせてました。

 

また、古文調の短編小説を書こうとして断念したり。

「今は昔、おとこありけり。そのおとこもすなる日記といふものを、おんなもしてみんとて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、いとおかし。」

そんな感じでした。古典の勉強にもなると考えて始めたものの、志村けんの「あーみーまー」状態になりそうでやめました。

 

それだけの話

それで、何がどうなったという訳ではありません。普段の生活で古文に接する機会もほとんどありません。でも、古典の学習に関してこうした記憶があり、時に見る古文の史料を目で追おうとする自分が少し気に入っています。

ただ、それだけの話です。

けれど、大事な記憶でもあるのです。