思いつくままに「仕事」と「子育て」の関係性を考えてみました。
今の私は、親の仕事からいろんな影響を受けていると思っています。仕事と子育て二つが私を支えているというより、二つが縒(よ)り合わさって糸となり、布となり今の私を覆ってくれている感じです。それを記事にしてみたいと思います。
母の「仕事と子育て」
「女って損やね。」
私が5歳か6歳の記憶です。
その時通っていた住宅団地の保育園は、親の送り迎えが必須でした。母は、仕事を終えてから私を迎えに来ました。買い物をすませてから来ることもありました。自転車のハンドルに自前の買い物かごやスーパーのビニル袋をかけて、私を荷台に乗せ、母は転ぶといけないからと自転車を押していました。子どもの目にも大変なことに見えました。
ある時、荷台に乗ったまま「女って損やね。」と母に声をかけたことがあります。その時、母の返事はなかったように憶えています。ほんの数秒の記憶だったので、私が成長にするにつれ、いつしか記憶違いや夢の話だったかもと思うようになっていきました。
ところが、高校時代に母とその話になりました。
母から、まだ幼かった私の言葉にびっくりしたと言われて、私もびっくり。「女って損やね。」は聞こえていなかったと思っていたのです。そして、自転車の荷台に乗ってる時のことだよね?と返したら、母はさらにびっくりしてました。結局、私の記憶通りで、間違いではなかったとわかりました。
なぜあの時返事がなかったのかも聞いたのですが、そうだったけ?昔のことだからよく憶えてないとはぐらかされました。そして、その頃のことを一通り話してから、母は呟くように「損と思うことが損なこと。」と言いました。母らしい答えです。
やりたくないことであっても、やらないといけないこと、やるしかないことなら、文句を言うより精を出す方がいい。それを損と思えば、精を出せなくなるから余計に損、そう言う意味だったろうと思います。そのことは、いつだったかテレビで映画『戦場にかける橋』を観たときの感想と重なって記憶に残っています。
ともかく保育園時代から始まった「女って損やね。」という見方は、ずっと私の中で続いています。もちろん、それを肯定したいのではなく「女だけが損をするのはおかしい」との思いからです。
子どもも仕事をしていた時代があった
母は農家の長女でした。農作業などの手伝いをして(させられて)いたことも話していました。牛を引いて田を耕す時代です。厳しい祖父(母の父)の下、かなりつらい思いもしたようです。
学校制度が始まってからも長らく、子どもは親の仕事を手伝う労働力や、親の仕事の後継者でした。1960年頃まで、農村地帯の学校では農繁期(特に稲刈りの頃)に休みが5~10日程設定されていたことも多く、子どもが家業を手伝うのは当たり前でした。一部地域では週5日制が始まる1990年代まで続いたそうです。現在の学校教育法施行令二十九条には、その文言が残っています。(下の余談を参照下さい)
最近の話で、子が親と一緒に仕事をする有名な話は、市川海老蔵さんの子、勸玄君が襲名披露興行したことではないでしょうか。伝統や格式を重んじる歌舞伎界ならではのことにも思えますが、明治維新より前なら、武家の親が子を連れて周囲の大人に顔合わせをさせていました。そうでなくとも、職人なら子が仕事を継ぐことはよくあったことです。高度経済成長以前なら、農家でも学業より農作業が大事なのは当然とされていたようです。
実は、母は高校への進学を望んでいたのですが、受け入れてもらえませんでした。当時の農家では、男でも高校進学をせずに農業に就く人が多かった中、女の母の願いがかなえられるのは無理だとあきらめるしかなかったようです。
母はそういう時代だったのだと高校生の私に言いました。確かにそうかも知れないけれど、そういう時代を続けていいのかという疑問は残り、やがて大学の卒論テーマになっていきます。母の意図ではなかったかも知れませんが、私はそういう子として育ったのでした。
女性はいつの時代でも「仕事も子育ても」だった
1985年、「国連女性の10年」の最終年に日本も「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」を批准し、「男女雇用機会均等法」が成立します。そして1988年、アグネス・チャンがテレビ番組の収録スタジオへ子連れ出勤をして「アグネス論争」が巻き起こります。その年の新語・流行語大賞でも注目されました。
子連れ出勤は、今でも話題になります。2017年に女性市議が乳児を連れて出席をしたところ、異例の速さで会議規則を改正し、これを認めないとして、注目を浴びました。
正直、アグネス・チャンや市議会での子連れ出勤の是非は、いろんな考えや立場があって難しいと思います。また、変容する社会の中で、どういう形がベストなのかも簡単に言えないと思います。
でも、少なくとも「仕事か、子育てか」といった単純な二者択一ではなく、「仕事と子育てをどう両立させるか」が問題の前提にあると思うのです。とりわけ、男女役割分担が当たり前に思われていた頃、子どもを持って働く女性はみな、その問題に直面していました。私の母もそのうちの1人でした。
論争が起きるよりもっと前、子どもが親の仕事場に訪れて、仕事を見せてもらったり、真似たり、手伝ったりは珍しいことではなかったはずです。私自身がそうでした。
私が保育園児の頃は、夕刻前に母が仕事(今で言うパート)を終えた後、迎えに来てもらい、一緒に帰ることができていました。でも、小学1年生だと学校の下校が保育園のお迎え時刻より早い日の方が多いのです。今の時代のような学童保育も、小学生の預かり場所もまだありませんでした。
母が内職する隣で宿題をする
結局、私が小学1年生の時、母はパート仕事を午前中だけにし、帰宅した私が独りぼっちにならないよう内職仕事をしていました。ですから家に帰れば母がいてくれたのです。
そんな事情は全然知らず、母を独り占めできる時間は私の大きな励みになりました。宿題が終わっても、母にほめられたくて自分で別に宿題を決めてやっていた記憶があります。
国語の教科書に一寸法師のお話がありました。それを国語のノート写していくのです。1年生の国語ノートですからマスが大きいです。お話を終わりまで写すと、ノートの半分ほどを使ってしまいましたが、ほめられたてとても嬉しかったです。
次の日、学校で先生にノートを見せると、大きな丸をたくさんつけてくれました。その日の勉強でもいくらかノートを使い、家に帰るとまた母の隣で一寸法師をノートに写しました。
また、ほめてもらえたのは嬉しかったのですが、その次の日の授業中、ノートが1冊終わってしまいました。さすがに、先生からも母からも「そこまでしなくていい」と言われてしまい、その後、宿題が終わると母の内職を手伝うことになりました。
内職をしながら遊ぶ
どういう話で内職が決まるのかは知りませんが、憶えている内職に、シャツのタグつけ、ベルトの穴あけと金具つけ、造花作りがあります。
シャツを表に返す
シャツのタグは、ミシンで縫いつけた後に余分な糸切りをします。そこまでは母の仕事です。私の仕事は、作業で裏返しになったシャツを元に戻すことでした。まず、胴体部分を返し、次に袖を片方ずつ腕を通して戻し、完全な表になるのです。
適当な歌を口ずさみながらやるのですが、作業は遅いです。母の糸切りがシャツ2~3枚おわる間に、私がシャツの表返しを1枚終わらせる感じ。なので、私の隣にはみるみるシャツの山ができていきました。
糸切りをしていた手を止めて、母から「どうしてるの?」と言われてしまいました。始めこそ、鼻歌交じりにやっていた私は、もう半泣きです。母の作業が速すぎるからだと文句を言いました。
母の顔は笑っていました。きっとこうなることを予想していたのでしょう。その辺り、母方の祖父も小学5年生時の担任も同じです。怒るようなふりをして、きちんと話を聞くようにしむける手法。それは私も時折に使う手法です。
話はよく憶えています。シャツのお腹の裾から、両手を突っ込んで、それぞれの手で袖の中を通って出たところの裾をつかむのです。そして、袖の裾をつかんだままお腹の裾まで引き戻せばいいのです。
あっという間に服が表に返ります。まるで魔法です。
後になってから気づいたことですが、その魔法が素敵だと思えたのは、それより前に何回も何回も、胴・袖・袖と手数をかけて表に返していたからです。
「頭を使わんと。何のために頭がついてるの?」
母の口癖だったか、祖父か、先生か、誰もにそんな台詞を言われた気がします。
とにかくその後、状況が一変しました。私がシャツを返す方が、母が糸切りをするより速くなったのです。それに気づくとさらに夢中になってどんどん返します。私の隣にあったシャツの山はどんどん小さくなりました。痛快でした。
やがて「まだぁ?」と糸切りを終わらせるのを催促するようになりました。
母は、笑いながら、教えるのが早過ぎたと言っていました。
貧しいから内職をしていたのでしょうが、楽しい内職でもありました。
(次回に続く)
※ 母のことについては、書き残したいことがたくさんあります。ずっと書けずにいて心残りでしたが、いいタイミングで書く機会を得たとも思います。そのため、続きもかなり長くなりそうなので、ひとまずここで切り、何回かに分けて書くことにします。ご了承ください。
続きの記事はこちら
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<余談 「学校教育法施行令」と農繁期>
(条文の抜粋です)
「第二十九条 公立の学校(大学を除く。以下この条において同じ。)の学期並びに夏季、冬季、学年末、農繁期等における休業日又は、家庭及び地域における体験的な学習活動その他の学習活動のための休業日(次項において「体験的学習活動等休業日」という。)は、市町村又は都道府県の設置する学校にあつては当該市町村又は都道府県の教育委員会が、公立大学法人の設置する学校にあつては当該公立大学法人の理事長が定める。」
学校で農繁期の休業がなくなったのは、農家の激減に加え、機械化や業務の委託などの影響も大きいと思います。
母の実家で手伝った(遊んだ)農作業には、田植え、草抜き、稲刈り、千歯こき、木製の足踏み脱穀機、手動の脱穀機、ヤギの見張り、ニワトリのエサやり、牛のエサやり、等があります。牛を使っての田起こしや代かきは、祖父がするのを見ていました。また、薪で風呂を沸かす火の番も5歳の時に任されました。
ただ、当時、小学生だった兄と一緒に田の仕事をしていた記憶があまりありません。兄は小学生になっていたので連れず、幼稚園児(海の近いアパートに住んでいた頃)や保育園児(新興住宅団地に引っ越した頃)だった私は連れていきやすかったのでしょう。
母と二人、バスに乗っていったように思います。
私が小学校に入ってからも2,3年、土曜の午後から日曜にかけてのみ、手伝いに行きましたが、機械を使うようになってからは行かないくなりました。
母方の祖父については、下の記事に詳しく書いています。
母は、私に手伝わせるのは気が進まないようでした。
でもその経験は、とても貴重なものとなり、今の私にとっても、ものの見方や考え方に欠かすことのできないことになっています。
もちろん、だからといって、子どもも学校に行かせず働かせた方が良いとはなりませんが、どんな仕事なのかを知る、見る、触れることは、子育てにもつながると思います。上の条文もそういう考えの下で続いているのだと思います。