tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業16.『こころ』(夏目漱石)は鉛のような話

『こころ』(夏目漱石)を一言で説明するとすれば、「鉛のような話」と答えます。心の奥底に沈む無彩色の鉛がまず連想されるからです。

  

『こころ』は、高校2年の現代国語(現国)で習いました。教科書に一部の抜粋とその前後のあらすじが載っていました。まだ男女の駆け引きに縁薄かった頃です。男二人と女一人の三角関係の愛憎劇の奥底まで感じ取れるはずもありません。それでも、この作品が印象に残っているのは、感情表現の仕方にあったように思います。

 

 

『こころ』について

漱石の代表作の一つと言える作品で、ウィキペディアでは「新潮文庫版は、2016年時点で発行部数718万部を記録しており、同文庫の中でもっとも売れている。作品としても「日本で一番に売れている」本である」と紹介されています。青空文庫にも所蔵され無料で読むこともできるで、未読の方、内容を確かめたい方は、ご覧ください。

www.aozora.gr.jp

 

あらすじ(注意:これ以降、ネタバレです)

本作は上・中・下の三場面に分かれています。簡単にあらすじを書きます。

上 先生と私

 明治の終わり頃。学生の主人公「私」と先生が鎌倉の海水浴場で出会います。東京に帰ってからも交流を続ける間に、先生の墓参りや奥さんの事、厭世的な暮らし方などいろんなことが気になっていきます。「私」は、先生から過去の話を聞こうとするのですが、時が来れば話すとはぐらかされます。やがて、大学を卒業した「私」の父親の病気が悪化し、帰省することになりました。

中 両親と私

 帰省した「私」は、進路の決まらぬまま、病気で弱っていく父と心配の尽きぬ母と過ごします。世が、明治天皇の病気、崩御、乃木大将の殉死と移る中、父の容態がいよいよ危なくなったとき、「私」宛てに先生から長い長い手紙が届きます。それが遺書だと気づき、東京行きの汽車に飛び乗って読むのでした。

下 先生と遺書

遺書には、先生の両親の死後、遺産相続で叔父に裏切られたこと、今の奥さんとその母親の家に、親友Kと下宿していたこと、その後に起きた悲劇等が書かれていました。墓参りや奥さんとの関係、厭世的な暮らし方の謎も明らかになりますが、最後に先生の自殺する決意も知ったのです。

 

 『こころ』から読み取れるもの

授業では、『こころ』について、「殉死の精神」と「明治時代の終焉」の二つを取り上げていました。 でも、当時の私には全然理解できません。時代の終焉に命を捧げても、誰かが助かる訳ではないのです。地球を守るために体当たりを選んだ『さらば宇宙戦艦ヤマト』の隊員や、「悲しいけどこれ戦争なのよね」とビグ・ザムに特攻を掛けたスレッガー・ロウ中尉達の方がまだわかりやすく思えました。

 

高校卒業後5年で昭和から平成へと時代は移りました。また、去年、平成から令和と移りました。2度、時代の終焉を経たわけですが、どちらとも時代と殉死はつながらないままです。

 

一方、ある程度、納得できたこともあります。「人間のエゴイズム、身勝手さ」と「それに対する自責」との間で思い悩む人間の姿です。ネット検索でも、よく見かける論調のように思います。『こころ』では、その葛藤を「鉛」の語を使っての巧みな表現に衝撃を受けたのでした。

 

『こころ』の中の「鉛」

「鉛」の字を使った描写

青空文庫で改めて『こころ』の中にある「鉛」を検索すると、四回使われていました。

 

1.中の場面、十八

父の容態が悪化し、いよいよ危ないというとき、先生からの遺書となる手紙で東京行きに汽車に飛び乗る直前、母と兄に手紙で知らせようとしたときの描写です。

「私は停車場の壁へ紙片を宛てがって、その上から筆で母と兄あてで手紙を書いた。」

 

2.下の場面、十二

先生が学生だった頃、信頼しきっていた伯父に裏切られた後に残ったわずかな遺産(それでも学生には大金)を手に、未亡人の奥さん(後の奥さんとなるお嬢さんの母親)の家に下宿することになります。

その際、故郷から東京に向かう汽車の中で、隣に座った親戚に警戒しているときの描写です。

「私の心は沈鬱でした。を呑のんだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。」 

 

3.下の場面 三十三

やがて先生は下宿先のお嬢さんに恋を抱くようになります。一方、同郷出身で同じ大学に在籍する、養父からの仕送りを断たれて神経衰弱になった親友Kを下宿に誘います。Kは奥さんとお嬢さん、先生と一緒に暮らす中で段々明るさを取り戻します。先生は、恋に鈍いと思われたKにお嬢さんへの思いを相談しようと思うものの、きっかけを失い続ける内、いつしかお嬢さんとKの様子に嫉妬を覚えるようになっていきます。

そして、十一月の寒い雨が降った日に一人出かけようとしたときの描写です。

「雨はやっと歇あがったようですが、空はまだ冷たいのように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目(傘)を肩に担いで・・・」

 

4.下の場面 四十六 

出かけてみると、連れ立って歩くKとお嬢さんに遭遇します。先生は二人の関係を疑い始めた矢先、逆にKからお嬢さんへの恋を打ち明けられ、困惑して何も言えなくなります。それから何日も経った頃、先生は仮病を使って奥さん(お嬢さんの母親)と二人きりの機会を狙い、突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」と告げ、すんなり承諾を得るのです。そして、すぐにお嬢さんに話して欲しいと急かせる一方、自分はそこに居合わせたくないと外に出かけます。

しばらく当てもなく歩き続けた後、家に帰り、先生とKと奥さんの3人で夕食をとる時の描写です。

夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。私はのような飯を食いました。

(※ 教科書に載っていたのはこの辺りの抜粋です。)

 

「鉛」で描写したかったもの

「鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。」部分は別として、「鉛を呑のんだように重苦しくなる」では重たさを、「空はまだ冷たい鉛のように重く見えた」では冷たさを強調したのだろうと推察できます。

では、「鉛のような飯」とは、何を強調したかったのでしょう。

 

高校時代に、一度先輩と話したことがあります。白米に対しての色、固さ、冷たさ、味気なさ、光り方の鈍さ…。結論は出ませんでしたが、鉛を使った表現はどれもに当てはまる気がします。白米に対して、あらゆるマイナスイメージとして鉛があるように思えました。そのセンス、言葉選びに、夏目漱石の凄さじゃないかと、二人で感心したものです。きっと、そのときの話で、印象強く記憶されたと思います。

 

ちなみに、イメージした鉛は、釣りの重りとして使われる物でした。ネットで調べると、ガン玉、割ビシと呼ばれているようです。それを元に、「鉛のような飯」を描いてみました。

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「鉛のような飯」イメージ

 イラストにしてしまうと何だか、鉛がかわいらしく見えてしまって軽い感じですね。私の画力の問題でしょう。

 

釣りはどちらかというと苦手な私ですが、釣り糸に鉛をつける時に、歯で噛んで固定した経験ならあります。石を噛んだ時のようなガリッという程の硬さではなく、割ビシの構造上、ぐにっと潰れる歯ごたえがあります。冷たく、味はしません。ただ、噛むのは一粒だけでした。もし口に何粒も入り、口のあちこちで冷たく無味で、ぐにっと潰れる鉛が鈍く擦れるのを想像すると、ぞぞっと虫唾が走りそうです。

 

小説『こころ』の本の装飾

鉛のこと以外に、印象に残っているのは、小説名「心」の文字です。

どのタイミングで、何に載っていたのを見たのか、記憶が定かではないですが、夏目漱石自身が、本の装丁のために描いた篆書体(てんしょたい)の「心」の文字が④です。 広義には中国の秦代より前に使用されていた書体全てを指すそうで、同じ漢字でも、複数の文字があります。(①~③)①は心臓の形から象ったものらしいです。

漱石が描いた篆書体の「心」④は、初版本には使われなかったそうです。⑤は、それをデザイン化し、⑥は、実際の本の装丁に使われた物。

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いろいろな篆書体の「心」と本の装丁に考案された「心」

今回の記事の下調べでわかったのは、ぱっと見で、「え?これってあれじゃないの?」と思ってしまう人は結構多いということです。当然、性への関心が必要以上に強い高校生が、あれに似てると思うのは無理からぬことで、心と性は切り離せないということを意味して、漱石は敢えてあんな字④にしたのだろうと真剣に思ってましたから。それを若気の至りの思い込みだったと思えるまでに少し時間がかかりました。でも、今回②を発見して、やはり心と性をつなげたかった人はいるのだろうと思い直したくなった次第。

 

まぁ、性の字は、「りっしんべん(心)に寄り添って生きる」という成り立ちなのですから、まるっきりの見当違いでもないかも知れません。心のままに生きるということは、浅はかさ、難しさ、恐ろしさ、清々しさ、等さまざまなことが混沌としている気がします。

 

心のある字を考える

心のある字を列挙してみると、田のことを気にする意味で「思う」、心ここに非ずで「悲しい」、準ずる亜の心で「悪」、心に響いて耳が赤くなるから「恥」、心に一筆刻むことで「必ず」、全てを今に賭ける思いで「念」、心を亡くして「忘れる」、心を包んで伝える「愛」等々・・・(注:私流の解釈も含んでいるので、本来の語源と虚実入混じっています)

 

善悪に限らず、心のありようで物事はずいぶん違って見えてきます。上の文字では②が一番あれを連想させそうですが、両手を挙げていると思えば一番元気な心にも見えてくるような…。え?見えてきませんか?

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HG正楷書体-PROと、鉛(がん玉、玉割ビシ)を並べた「心」

ちなみに、⑦は「HG正楷書体-PRO」フォントです。見慣れているせいもあって、一番落ち着く字ですが、この形になるまでに、①~③を経たと思うと、何だを隠して取り繕っている心のようにも思えてきます。⑧は、鉛のイラストを「心」の並びにした物です。でも「鉛のような心」にはとても見えず、おどけている風にも見えます。

 

心と向き合う難しさ

人は何故、心を飾り、偽ってしまうのか。何故、固く心に決めたはずのことさえ、守れないのか。そして、如何に心のまま生きることが難しいのか・・・。

 

小説『こころ』は、誰に理解されなくても、またたとえ、正しくても間違っていても自分の心に嘘はつけないものだ、そんな一面を見せてくれたように思います。もっとも、それは、漱石に限らず、多くの人がいろんな手法で表現していると思います。

 

夏目漱石はそれを「鉛」で表現していたように思えるのです。

何故、鉛を使ったのか、鉛で何をどう表現したかったのかーー。

その辺り、いつか夏目漱石に会えた時に質問してみたいです。

 

 

 

今週のお題「会いたい人」