tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

「愛の反対は憎しみではなく無関心 」とマザー・テレサのバトン

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉は、マザー・テレサの言葉と思っていましたが、違うようです。1981年に彼女が来日して以降、広く知られるようになったことで誤解されたのだとか。

 ↓ 参考URL

ameblo.jp

 

その辺の真偽はともかく、この言葉とマザー・テレサは思春期の少年の心に深く突き刺さりました。

一つは、無関心、つまり知らないままでいることの恐さとして。

もう一つは、対義語の考え方の新たな切り口として。

愛の反対は憎しみだと思い込んでいた当時の私にとって、言葉の次元が変わったように思ったのです。

 

 

愛と憎しみ

図にするとこんな感じでしょうか。

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愛の反対は憎しみ?

Aの位置から見ると、愛と憎しみは真逆です。わかりやすいです。

 

愛と憎しみと無関心

しかし、「愛の反対は憎しみではなく、無関心」となると、「憎しみ」と「無関心」が入れ替わるのでしょうか?いいえ。そうではなく、見る場所が違うのだろうと思いました。図にするとこんな感じです。

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愛の反対は無関心と憎しみ?

つまり、Bの場所から見ると、「愛」の反対側に「無関心」があると見えるという訳です。ひとまず、私の中ではこれで納得できました。

でも。「無関心」の軸の逆方向、?の場所には、「関心」があるはずです。では、「愛」と「関心」は類義語の関係があるのでしょうか。確かに愛があって関心がないというのはあり得ない気がします。

でも・・・。強く愛していたからこそ、裏切られた時に強い憎しみに変わるという言い方も聞きます。つまり、愛と憎しみは感情としては真逆の関係でしょうが、その強さで言えば相関関係にあるとも言えそうです。

となれば、強過ぎる関心と異常に強い愛=溺愛は、対立関係に見えることがあるかも知れません。関心が強過ぎる故に相手を束縛することになり、強い憎しみになることもある気がします。そんな風に考えると「無関心」と「憎しみ」の間に立って、「愛」と「関心」の方向を見れば、対義語になることもあるかも知れません。考えようによっては、関心が強過ぎる溺愛と薄すぎる博愛は対立関係にも見えそうです。

図にすればこんな感じ。

 

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B’から見れば、関心と愛は対立して見える?

 高校時代、私の中で「愛」と「憎しみ」、そして「無関心」と「関心」はこんな感じの図になっていました。そして「愛の反対は憎しみではなく無関心 」は正しい、しかし、「愛とは強い関心である」や「強い関心が愛である」とは言えないと考えました。漠然と理想的な愛は難しく、ゆえに素晴らしいなんて結論付けていました。

 

 見る立ち位置を変えるみるということ

 こうした発想は、さらに言葉の考え方を広げてくれました。

上では最初に「憎しみ」と「愛」の軸から見ましたが、逆に「無関心」と「関心」の軸から考えるようにすると、次のような考え方も成り立つように思います。

無関心でいるか、関心を持つかは確かに大事なことである。しかし、そこで得た情報に愛があるかどうかで、その情報は「憎しみ」の増大にも「愛」の増大にもなり得る。

そんな感じ。

この軸は、文明や技術等にも通じそうです。人間の生活に欠かせないはずの文明や技術も、その有無や量、質だけに固執すると、人間の生活を脅かすことになっても追求してしまうことがあります。人間の生活を考える時、暮らしやすさや、安心、安全等、他にも欠かせない軸があることを見失ってはいけません。

 

マザー・テレサ

「愛の反対は憎しみではなく無関心」は、調べ直すまでマザー・テレサの言葉だと思っていました。それが間違いと知って少し驚きましたが、だからと言って彼女の功績が薄れる訳ではありません。

 

  • 平和は微笑みから始まります。
  • この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。
  • 私たちは、成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです。
  • ノーベル平和賞受賞のインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサは、「家に帰って家族を愛してあげてください。」と答えた。

 

見る軸を変える、自分の価値観と違う価値観から見てみるーー。

そこから初めて見えてくるものがある。彼女の言葉は、それを教えてくれた気がします。それは彼女の宗教と無縁ではないかも知れませんが、宗教の枠にとらわれない普遍性が根っこに在るように思います。

 

「無関心」への警告は、マザー・テレサから始まったと思っていましたが、そうではなかったようです。でも、高校生だった私に「無関心」の警告バトンを渡してくれたのは、マザー・テレサであることに変わりありません。

 

 

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<余談 「無関心」に言及した言葉>

1979年、マザー・テレサノーベル平和賞を受賞します。そして1981年に訪日。その前後から、マスコミを通じて彼女のことを知ることが増えていきました。上述のブログによると、

1981年 ACジャパン(旧 公共広告機構)が、マザー・テレサを登場させるCMを流す

        →https://www.youtube.com/watch?v=VM9zoIyAEV0

www.youtube.com

「すべての人が幸せになる。これを邪魔している最大の敵は、私達の心の中に住む隣人の苦しみ、痛みへの無関心ではないでしょうか」(ロングバージョン)

私たちの敵は無関心です(マザー・テレサ)|広告作品アーカイブ|ACジャパン

から、間違われたのではないかということらしいです。

 

「愛の反対は憎しみではなく無関心 」

この言葉を最初に使ったのは、A・S・ニイル(1883年 - 1973年、イギリスの新教育運動の教育家)のようです。

 

また、

「人々の無関心は、常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない」


今日我々は知っている。
愛の反対は憎しみではない。
無関心である。
信頼の反対は傲慢ではない。
無関心である。
文化の反対は無知ではない。
無関心である。
芸術の反対は醜さではない。
無関心である。
平和の反対は戦争ではない。
平和と戦争に対する無関心である。
無関心が悪なのである。
無関心は精神の牢獄であり、我々の魂の辱めなのだ。

 

エリ・ヴィーゼル( 1928年 - 2016年、自らのホロコースト体験を自伝的に記し、1986年にノーベル平和賞を受賞、ボストン大学教授)の詩も見つけました。

 

 

無関心は、多くのことについて反対語となるようです。 

 

この記事を書くにあたっての下調べで、バトンリレーの第一走者を知れて良かったと思いました。