tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn24.正しく恐れることの難しさと大切さ

コロナウイルス感染の兆しが見え始めた頃から「正しく恐れることが必要」と言われ続けていた。もっともだと思う反面、正しく恐れるイメージを持てず困っている。

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コロナを正しく恐れたい

 

感染者を増やさないことは重要

中国武漢とその他の地域とでの致死率の違いが話題になったことがあった。感染が集中していない所では致死率は低いという話もあったと思う。逆に言えば集中している所では致死率が高くなるということだ。

色々な情報に接する限り、これは正しいことのように思われる。

だから、とにかく感染者数を増やさないことは重要だとは思う。

 

どうすれば感染者が増えなくなるか

ところが、どうすれば感染者が増えないかはあいまいなまま推移していた気がする。

 

感染者を隔離することが重要と言われるのに、ダイアモンドプリンセスでは、感染者も非感染者も同じ場所で食事をしていたとも聞く。そうでなくとも、同じ船で検査も進まぬ中、感染者と非感染者の区別なく長期間閉じ込めていたこと自体、3密(密集、密閉、密接)を持続させていたことになる。

 

緊急事態宣言が出された現在、人の移動を制限した都市や地域がそのものが、かつてのダイアモンドプリンセスと似た状態ではないかとは考え過ぎだろうか?誰が感染しているか不明なのだ。ただ、船との決定的な違いは、食事や洗濯、掃除、睡眠、入浴、必要不可欠な外出も、各家庭ごとに完全に独立して行えること。さすがに買い物の際は仕方ないが、人が殺到せず落ち着いた状態で、予防にも留意して買い物ができる状態であれば、問題はかなり少ないように思う。ともかく移動しなければ、感染する、させるリスクは格段に減るのは確かだろう。

 

もちろん、仕事などで外出が避けられない人はいると思うが、外出さえしなければ感染を抑えられると確信を持てるのと持てないのとでは、人の行動は大きく違いが出るはずだ。きっとそこが最重要な点。

 

感染が不明な状態での隔離は不可能

また、以前まで多くの都市では、感染者がきちんと隔離できていない状態で、人の行き来があった。ごくわずかで悪質な例を除けば、感染者は自分が感染していることを知らずにいた訳であるから、そこで隔離するのは、ほぼ不可能だったろう。

 

感染の可能性があるかも知れない人は、自主申告で自宅や宿泊施設待機をするように求められた。しかし、逆に言えば、感染していないはずだという思い込みがあれば、制限を受けず行動ができた。それを止められる立場の人に、それを止める権限が与えられていなかったことも、隔離できなかった一因としてあると思う。

 

感染の怖さとバッシングの恐さ

感染がわかれば行動が制限されて困るので、検査を拒否した人もいる。その気持ちもわかる。とりわけ、感染が明らかになった人は、それまでの行動、プライバシーをさらされた上、世の非難の的にされてしまうのだから、なおさらだったろう。

 

もちろん、それを許していては感染予防にならないという反論もわかる。しかし、感染者バッシング(排除)されるのが明白なままだったことも、結果的には感染予防にマイナスに働いたと思う。世のバッシングで辛い目に遭うことが検査回避の動機にもなったと思えるからだ。

 

排除と隔離は別物である。

社会的な排除の風潮が強ければ、感染の可能性がある者はさらなる不安を背負わねばならず、それを隠す方向に向かう。

逆に排除の風潮が無ければ、感染の可能性のある者の不安は、検査を受けることで不安が軽くなる。

感染者の隔離が進みやすいのは、明らかに後者だ。感染者への非難やバッシングといった社会的な排除の流れは、コロナの隔離を難しくさせてしまう。

 

排除されることを恐れる人ほど、検査を拒否する傾向にある。つまり、排除する人が多ければ多いほど検査は進まず、治療は遅れ、重症の人数が増え、医療崩壊を推し進める。そうなったとき、排除の風潮は、医療非難、バッシングへと暴走しやすい。既にいわれの無い非難に晒されている医療従事者もいる。

 

排除は隔離を失敗させる。それがバッシングの恐さだと思う。医療を健全に機能させるために、バッシングこそ、静止させるべきだろう。

 

日本のPCR検査数が少ない事実と現状

日本のPCR検査数の少なさが問題視されている。

日本のデータには信頼性がないという。もっと実態を正確に把握しなければ対応できないという。それはそれで正しいと思う。

しかし、その指摘をする多くの先進国が、医療崩壊に直面しているのをみると、圧倒的な検査数がコロナを封じ込める一番有効な手段とまでは言えないように思う。

検査して陽性か陰性かがわかるだけで感染や症状が治まる訳ではないのだから。

 

今の日本は、感染者数の正確性に欠けているとは思う。しかし、不正確な中でも、感染者数が急激なスピードで増えてる以上、緊急事態宣言は必要だと思う。遅すぎた感は否めないが、出さないよりは良かったと思う。

 

一方で、なんとか医療崩壊直前で持ちこたえてる状態とも言えると思う。感染者が急増中であるが、皆が病院に殺到し、寝る場所も無いという状態ではないと思う。これが検査数の少なさからくるものであろうとなかろうと、求められるのは、これ以上現場を悪化させない対策のはずだ。

 

とにかくこれ以上悪化させないために

検査数を増やしても、つまり、数字上の感染者数が増えたとしても大丈夫な体制(特に韓国方式が有効に思われるし、そういう対処が進んでいるとも思われる)づくり、「早期追跡、早期検査、早期治療」の徹底、自宅待機、軽症者受け入れ施設、重症者受け入れ施設などの振り分けなどは不可欠だと思う。

ただ、「早期追跡、早期検査、早期治療」を可能にさせるめに、国民の安心、信頼を得て、正しく恐れ、正しく対処する方法を示すこと抜きには成り立たないはず。

 

正しく恐れたい

所詮、素人の個人的な思いではあるが、今、もっとも重要なのは、陽性反応が出た人はどうすればいいか、安心できる指針を明らかにすることと思う。

・医師の手を借りず治る人も多いと聞く。

・感染に気付かないままに日常生活を続けている人もいると聞く。

・症状が出た後、重症化するまでが短いとも聞く。

・重症化すれば、医療器具も人も必要数確保するのが難しいとも聞く。

楽観してしまいそうな情報と悲観してしまいたくなる情報が入り乱れている気がする。そして宣言が出されたこともあって後者の情報量が多いように思う。

だからこそ、「早期追跡、早期検査、早期治療」が安心を得るのに有効だと思うし、そうした情報を得たい。

 

そんな中、何の確証もなく、自分は感染していないはずと思い込むことで、なんとか生活している人が多いのではないだろうか。私もその一人。

その反面、もし感染していて一気に症状が悪化したらという不安が常にある。そして感染者数、死者数の拡大や、政府発表のニュースで不安は膨らむばかり。自分にコロナ感染に似た症状が一つでもあれば、もしかしたら感染しているのではと恐くなる。

 

何だか、自分が必要以上に恐れている気がするのだ。周りに対して、つとめて平静を装っている今の私だが、一度、感染したとわかれば、この後一気に悪化するのではないかと絶望への坂道を転げ落ちそうな気がして仕方がない。

 

そう思うとやたらと恐い。嘘で安心するのもごめんだが、不必要に恐れるのも嫌だ。

やはり、正しく恐れたい。

 

回復した人の情報も知りたい

今、一度感染して回復した人の状況をたくさん知りたいと思う。

「私、感染してました。でも、病院で2週間じっと待っていたら回復できました。」なんて話は、絵空事なのだろうか?「陽性反応は出ましたが、症状らしい症状はなかったです。人に感染させてしまうのが怖いと思って待機していましたが、気がついたら治ってました。」そんな例はないのだろうか。

そんな話が多過ぎれば、警戒心が弱まってしまう危険はあるが、心疲れる情報ばかりののままでは、必要以上に恐れるばかりになりそうな気がする。

 

必要以上に恐れることは、バッシングを受けたのと似た状態ではないか。びくびくしながらの生活ではパニックも起きやすいはず。それはコロナの隔離とは真逆の方向に作用するのではないかと思うのは、私だけだろうか。

 

既に、正しく恐れることは難しいと痛感している。

しかし、それを手に入れることこそが、コロナを抑えるのにもっとも大切だとも思うのである。

そして、少しでも早くコロナが治まることを願っています。