はじめに.最寄駅までの道と北隣の駅まで道
実家は、一時、四国一の広さとも言われた住宅団地にありました。最寄の駅まで歩けば20分弱で着きます。最寄駅には店や自転車の預かり所(民家の一部を使っていて有料)があり、友人との待ち合わせにも便利。団地を抜けていくため、通り道には家や外灯も多く、冬の暗い時間帯でも安心です。
一方、北側の隣駅まで歩いて20分強かかります。でも、県庁のあるT市に行くのに、列車(当時は国鉄)は北の隣駅を通っていきます。最寄駅からは距離にして約2.5km。列車で3分程。最寄の駅で乗れば歩く時間が数分少なくすむとは言え、列車が北隣の駅に到着するのは同時刻なわけですから、北隣の駅で乗った方が安くてお得とも言えました。ただこちらの道は、団地の背後から抜ける農道で、すぐ横に用水路が続きます。周りは一面田んぼ、家はまばらで、外灯もほとんどない道でした。
そんな訳で通常は最寄駅を利用していました。でも、今懐かしさを覚えるのは、最寄駅までの道より、北隣の駅までの道です。それは、かつて通った道と言うより、四季の移ろいを教えてくれた場所だったからだと思います。
<記事のもくじ>
1.春
春、そこは耕された田んぼに水が張られていました。田んぼを仕切る畦道を歩けば、立ち上る泥の匂いと、水面に反射する春の眩しい陽が感じられました。田の水に手を伸ばせば思いの外、水は暖かく、底の土は、ふんわり柔らかかったです。手で土をぐいと押し込むとじわ~っと小さな泡が浮いてきます。後に、それ程に空気を閉じ込められる土が稲にはいいと聞いたことがあります。
探していたのは、カエルの卵。団地に引っ越してくる前、近くの田んぼで兄と一緒に見つけたことがありました。手に持ちあげて、むにょっとしたゼリー状のものに包まれた黒い粒々が、陽に輝いてとても綺麗で不思議に見えた記憶。この団地の背後の田んぼにもあるのだろうかと気になって、一人やってきたのでした。
しばらく歩き回りましたが、カエルの卵は見つけられません。代わりに、黒く小さなおたまじゃくしの大群を見つけ、来る時期が遅かったと知りました。
2.夏の始め
夏、というにはまだ少し早い時期、家族そろって夜の田んぼまで散歩に何度か訪れたことがあります。ホタルを見に来たのです。昼間であれば、青々とした田の葉の高さは小学校に入学したばかりの私の膝より高くなっていました。まだ夜の暗闇に怯えていた頃です。母の手に引かれて、街灯りのある団地から遠ざかり、外灯一つない農道を進んでいきます。昼間と違って、薄い月か星かの明かりに稲の葉は影になっているのですが、そこに無数の小さい灯り。黄色とも緑ともつかない色が、ゆっくり点滅していました。
記憶が多分に強調されているのかも知れません。でもそれを見て母の手を離れ、吸い込まれるように田んぼの光に向かって歩いていたようです。母の「あぶない」の声に呼び止められ、手を握り直されました。その後、しばらくその辺り一面で点滅する光を見ていました。幾つか宙にのぼる光や近づいてくる光もありました。兄はそれを追いかけていました。でも、捕まえられなかったのが腹立たしかったのか、石を田んぼに投げ入れました。
その瞬間。無数のホタルが一斉に飛び立ち、まるで、田んぼから次々に星が立ち上っているかのような風景が広がったのです。それが面白くて、つい私も石を放り投げました。
「田んぼに石を投げたらいかん。」そう叱る母に握った手を引っぱられた気がします。
翌年の夏、また一緒にホタルを見に行きました。でも、あれだけあったホタルの光が、一つもなかったのです。私が石を投げたからだとも思いましたが、「農薬のせいだろう」と聞きました。その年から、ヘリコプターによる農薬の散布が始まっていたのです。
3.夏休み
夏休み。当時、母校の小学校にはプールが無く、授業では遠足のようにバスを手配して隣の小学校のプールまで往復していました。そのせいもあって泳ぎが苦手な私は、水の深い場所を避け、膝くらいまでの水辺で遊んでいたのでした。その点、農道と並行して流れる用水路は、溝は深くても水量が少ないために浅く格好の遊び場でした。特に、その用水路の上を別の細い水路が横切っていた場所ではいろんな遊びをしていました。下の太い用水路でザリガニ取りなどで遊んでいる友だちを見つけると、こっそり上の細い水路に入って、上から狙って水を飛ばすのです。始めの内は手の平でぱしゃぱしゃするのですが、下からの反撃に合うと、板を見つけてきて、それでバシャバシャとぶっかけます。それに飽きると、板で上の水路をせき止め水を溢れさせ、下で打たせ水のごとく浴びるのです。服は着たままですが気にしません。夏の陽に当たっていれば、その内乾くと開き直っていました。
あ。以前の記事に「雨に濡れることにずいぶん平気だった…」と書きましたが、この経験が根底にあって濡れ慣れているのかも知れません。
でも、近くの農家の人から苦情があったのでしょう。学校で用水路の水をせき止めてはいけないと話があったことも、それよりまだ前、直接ここで遊ぶなと叱られたこともあります。それからは水をせき止めることはしなくなりました。
水がたっぷり流れていて用水路に入れない時もありました。そんな時は、釣り。もっとも私は釣りが苦手で、自分で釣ると言うより、誰かが釣った魚(大抵、フナ)がバケツの中を泳ぐのを眺めてることが多かった気がします。
何年か後に、「およがれん」と書かれた看板が立てられました。苦手なので泳いだことはありませんが、用水路の中に降りることもやがて無くなりました。
4.秋
秋は、北隣の駅近くのお寺でお祭りがあります。稲刈りも終わり、藁を干してある頃です。この時は、お寺まで歩いて行った記憶があります。自転車で行ってはいけない、低学年の子だけでは行ってはいけない、そんな決まりがあったように思います。友だちと一緒に行ったのは小4の時だったでしょうか。
お祭りの記憶もあるのですが、それよりも藁を積んだ山で遊んだ記憶の方が鮮明です。稲を刈り取った後の田んぼは走り回っても構わないというルールが共通のものだったのか、一部の人だけのものだったのかは知りません。でも、母方の実家の家屋内で騒いでいると、祖父に怒られ、「田んぼで遊んでこい。」と言われたことがあります。祖父は田畑の管理にかなり厳しい人でしたから、刈り取った田んぼで遊ぶのは普通のことだと思い込んでいたのです。
(祖父について書いた記事はこちら)
そんなこともあって団地裏の田んぼでもよく遊んでいました。
お祭りからの帰りに田んぼに入り込んで、藁山のてっぺんに一人で立ち「お山の大将、俺一人!」と叫んだら勝ちですが、叫ばれる前にその子の足を引っ張ったり、立っている藁の束を引き抜いたりして、引きずり落とすのです。湿気を帯びた藁は意外と滑ります。遊びながらもだんだんと熱い戦いになっていき、大抵は藁の束でたたき合いになっていったように思います。雨で濡れたのか、露が溜まったのか、藁の束をいくつか剥ぐと、たっぷり水けを帯びている藁が出てきます。それで叩かれるとかなり痛いのです。程なく、「もうやめよう」と誰かが言い出すのですが「うん、じゃあこれで最後ね!」と叩いてくるので、延長戦になることも多かったです。
また、藁山はマット代わりにもなって、アクロバットな動きで楽しむことも。私はできませんでしたが、バク転(手をついて背中から後ろに回転)やバク宙(手をつかずに後ろに宙返り)する子もいました。
そうして、かなり日が傾いてきた頃に家路につくのですが、汗まみれなった体で受ける秋風は冷たく、また藁のくずが身体や口の中にくっついていて痒かったです。「はしかい」の言葉はこの時に納得しましたが、「ちくちくと痛がゆい」ことを指す方言だと知るのは、10年以上後のことでした。
5.冬
そして冬。水が無いとはいえ、露や霜の降りた後の田んぼの土は大抵湿っています。普通の運動靴でも、走っている内に靴裏に泥の塊ができていきます。段々と靴が重くなっていくのでそう簡単には走れなくなります。日本人の強い足腰はぬかるんだ田んぼと和式便所で鍛えられたからという話も、あながち嘘ではなかったかも知れません。
正月遊びの定番、凧揚げも良くやりました。洋凧が流行り出した頃、友だちのゲイラカイトとやっこ凧で高さの競争をしたこともあります。高いかどうかは揚げる腕によると信じていた私に、ゲイラカイトの揚がる角度は衝撃的でした。肝心のどちらが高いかについては、揚がる角度の違いがあるため、ゲイラカイトはすぐ目前であがるのに対し、やっこ凧はかなり遠くであがるので、「どちらが高いかは、はっきりわからない」ことになりました。でも、私はやっこ凧の方がかなり糸を長く使っていたことを知っていて、同じ長さの糸なら圧倒的にゲイラカイトが高くあがると思い知らされていたのです。きっと友だちもそこには気づいていたはずですが、それを指摘しなかったのは、彼の優しさだったのでしょう。
6.1980年代以降のこと
こうした記憶は、私が小学生の時のもの。1970年代前半です。
高校時代は、映画に行くときに通る道になっていました。映画館のあるT市まで列車の運賃を節約するために自転車で通っていたのです。国道を通るより短く、車の交通量も少なかったのです。もっとも、他の場合も通っていましたが、小学生の頃のような遊びもしなかったですし、農作業も機械化が進み、藁を干していることもなかったように思います。
また、列車で通る時に車窓から眺めていたのも覚えています。線路からは幾分離れた場所だったのですが、それでも稲の育つ頃の緑や稲刈り時期の黄色が見えていました。大学時代は、帰省の折に車窓越しに景色を見て帰ってきたことを実感していました。
やがて、道路が整備され、車も通り易くなり、交通量も増えました。最近は帰省の折にはその道を通って帰っています。昔の道そのものは残っていますが、歩く人も随分減ったようです。
団地ができたのが1970年頃ですから、もう50年近い昔。帰省するたびに感じていましたが、若い者は私を含め他の場所に引っ越していき、徐々に高齢者が増えていきました。もちろん、子どももいるのですが、その数は減り、田んぼを走り回る子も凧揚げをする子も見かけなくなりました。
7.私の住みたかった街、住みたい街
ここで改めて、「私の住みたかった街は、小学校時代に住んでいた街か」と自問すれば、それは違う気がします。確かに住んで良かった街の一つではありますが、今も夏の始めにはホタルが飛び交い、秋には藁山で子どもが遊び、正月には凧の揚がる街のままで在り続けることは無理な話です。いえ、そればかりか、当時でさえ生活の中心は団地内であり、団地裏の田んぼは言わば秘密基地的な、大人の関与が極限られた場所だったからこその良い思い出でした。もし、農道に沿って点在した家の一つに住んでいたとしたら、田んぼだらけの風景にうんざりしていたようにも思います。
住宅と田んぼのバランスが絶妙な団地の端の家に、あの当時限定で住めたことはとても幸運でした。街というものは、時間、空間、人間の移り変わりで変遷していくものであって、その中で住みやすさや楽しさを見つけていくことが、暮らすということのように思うのです。
それでもあえて、住みたい街の条件を一つ挙げるとしたら、「心安らぐ逃げ場や隠れ家がある街」と言える気がします。それはきっと、住む前からわかるようなことではなく、そこで暮らしてみて初めて分かることなのでしょう。
これが、住み始めてもうすぐ2年になる家の中でじっくり考えた答えです。
お題「住みたい街、住みたかった街」
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