「坊やだからさ。」
これは、誰かの言葉というより、アニメの中での台詞です。何のアニメの、どの場面の誰のセリフなのか、すぐわかる人は意外と多いのではないでしょうか?
『機動戦士ガンダム』の、シャアが場末のバーカウンターで、水割りか何かを片手に、テレビを観ているシーン。戦死したガルマの国葬が中継され、兄ギレンは「ガルマ・ザビは死んだ、何故だ?!」と問いかけます。その言葉にシャアがこう返します。
「坊やだからさ。」
何故、あのシーンに強烈な印象を感じるのか、その理由を考えてみました。
「坊やだからさ。」が名台詞である理由
シャアにとっての坊や=操れる相手
シャアにとってガルマは学友、戦友である以上に親の仇でもあるのですが、ガルマからすれば信頼できる親友になっています。ただ、その信頼度は、無防備すぎると言うか、むしろ愚直に思える程です。恋愛や家族等プライベートなことでもシャアに話すし、読まれるしで、いわゆる脇が甘いという感じ。しかし、シャアには仇をとる目的があったとしても、微に入り細に入りで、ガルマの信頼を得られるのも納得できる立ち居振る舞いになっています。
ガルマもそれなりに優秀ですが甘ちゃんである故、仇討ちをもくろむシャアに遠く及ばず、シャアの引き立て役になっていて、結果、シャアの厳しさ、賢さ、冷徹さ等が際立ちます。
そういう長い伏線があるからこそ、「坊やだからさ。」が生きているのでしょう。これが「馬鹿だからさ。」だったなら、シャアの賢さが鼻につく感じ。「末っ子だからさ。」なら、冷徹さが強調される感じ。でも、「坊やだからさ。」であるゆえに、シャアなりに仇であるガルマを可愛がっていた部分もあるように受け取れるのです。
何にせよ、ガルマは坊やであったから散ったのだという結論は、その後のストーリーの重要な布石にもなっています。
アムロは坊やにはならなかった
ホワイトベースを一人抜け出したアムロが、水と食糧を探してさまよった後、一つの店を見つけて入り、食事をしようとするところに、ジオン軍のランバ・ラル隊がやってきます。その中の一人ハモンが隊員の食事を注文した際、ラルの「一人分多いぞ。ハモン。」の言葉に、ハモンは「あそこの坊やにも。」と答えます。続いて「あんな子がほしいのか?」と聞かれて笑います。
つまり、この場面、アムロはハモンに坊やとして扱われたのです。シャアがガルマを坊や扱いしていたことを、アムロもハモンも知るはずがありませんが、アムロに感情移入していた人には、カチンとくる表現だったはず。私もそうでした。そこに、ラルも驕らせてもらうという流れになり、意地の張り合いのような、何かトラブルになる予感満載状態になります。しかし、アムロは、
「僕、乞食じゃありませんから。」
と、きっちり断る理由を述べ、冷静にその場を収めようとします。
この返答が「僕、坊やじゃありませんから。」なら、真っ向から見解の相違をぶつけて角が立ちそうなところです。そして坊やじゃないと相手の言葉をそのまま使う芸の無さは坊やっぽいです。この部分、はねっ返りのアムロにしてはなかなか考えた台詞に思えます。
その後、アムロを探しに来たフラウが捕まってしまい、アムロの名前をラルに知られてしまいます。その際にラルは、腹を決めたアムロがマントの下で銃を構えるのを見抜き、「しかし、戦場で会ったらこうはいかんぞ。がんばれよ、アムロ君」とフラウともども放免します。それは尾行するための口実でもあり、非戦闘地域では戦争をしないというラルの流儀でもあったでしょうが、ラルやハモンが、敵とは言えアムロを気に入ったことが伝わる名シーンでした。
その後、アムロの操るガンダムとラルの操るグフの戦闘になります。ガンダムの対戦でも屈指名勝負でしたが、互いに戦闘不能に陥り、痛み分けになります。
「まさかな、時代が変わったようだな… 坊やみたいなのがパイロットとはな!」
何とか敵を退けたアムロを待っていたのは、無断外出の独房入りでした。その中で、ラルに勝ちたいという強い思いを持ち、甘えや自惚れを断ち、迷いを抜ける糸口を見つけるのでした。
結局、いろんな経緯はありましたが、ラルとハモンは散り、アムロは生き残ります。リュウという大きな代償を払って。この経験でアムロは坊やの壁を乗り越えられたように思います。もし逆に、ハモンが生きアムロが死んでいたら、シャアと同じ様に「残念だったわね、坊や。」と呟いていたかも知れません。
シャアの「坊やだからさ。」は、ここにも繋がっているように思えます。つまり、ガルマは坊やであった故に死んでしまったが、アムロは坊やではなくなったがゆえ生き残ったという説得力です。坊やからの脱却が『機動戦士ガンダム』の一つの鍵と言えるかも知れません。
このとき、私がそうだったように、観る者にとって(この場合多くは中高生が中心だったと予想されますが)坊やで無くなること≒強い大人になるという図式ができあがった気がします。坊や(甘えや自惚れを持つ存在)である限り、強い大人(甘えや自惚れを断つ存在)には勝てない。そのメッセージが、シャアの「坊やだらかさ。」に隠されているとも思うのです。
坊やのまま大人になることへの反発
もう一つ象徴的な意味があります。国葬の中継でギレンはガルマの死を国威高揚につなげるための演説をぶち上げます。国家のために個人の死を利用しようとする思惑に対して、「坊やだからさ。」の台詞には、ガルマは国家のために死んだのではないと否定する意図が感じられます。思春期から青年になる過渡期にある者にとって、「坊や=強い者に従う存在」との構図をも示唆しています。
ギレンは演説の中で、「国民よ、立て!立てよ、国民!」と執拗に煽ります。しかし、ここにシャアの一言を挿入することで、視聴者が演説に反発し「大人に利用される側でいてはならない」と決意するよう仕向けているように思うのです。
こう考えると、シャアの「坊やだからさ。」の台詞が、「自分は自分らしくいたい」と考え始める年代の視聴者を鷲づかみにしたことも、自分も坊やから脱却する道を見つけねばとアムロに言動に傾注していくことも、納得できます。
誰かに利用される者でもなく、甘ったれた坊やのままでもない、自分らしい自分探しに駆り立てる言葉。それがシャアの「坊やだからさ。」に秘められていると思います。だからこそ、この台詞に人を惹きつけてやまない魅力があるのでしょう。