tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

食べる人の満足だけで終らないお米に憧れて

私の父も母も元は農家の出身です。それぞれの実家で米を作っていて、幾つかの品種を育てていたそうです。聞き慣れない品種も多く、はっきりした名前は失念しましたが、その中で「農林〇号」という米を育てていたと聞いたことがあります。まだ小学生だった頃に聞いたときには、変な名前というくらいの印象しかありませんでした。

 

母方の祖父は、周囲にも自分にも厳しい人でした。1度決めたことは余程のことが無い限り、あきらめないし、自分の考えを変えない、とても頑固な人でした。極力、今ある物を大切に使い、高度成長期にあってもなかなか新しい物を買いませんでしたし、買ったとしても、まだ使えるものをなるだけ使い、新しい物はあまり使いたがらなかった記憶があります。

 

父方の実家では、新しく出回り始めた農機具なども使い始めるのが早かったですが、母方の実家では、しばらく牛を使って田を耕したり、田植えや稲刈りも手作業だったりしました。そのおかげで、幼少の頃から手伝わされていました。手伝うと言っても、幼少の頃であればむしろ邪魔になるくらいだったでしょう。母はまだ小さいからと私に田仕事を手伝わせるのを快く思っていなかった風でしたが、頑固な祖父には敵わなかったようです。

 

小学校入学してからも、しばらく手伝っていました。そしてよく叱られました。稲刈りの時に、鎌で指を怪我した時も「米に血が付いたら、売り物にならん。」と叱られました。ただ、そんな時は決まって、どうすれば怪我をせずに済むのかを教えてくれる人でした。でも、それが上手くできなければ、やっぱり叱られます。そしてその度「稲をつかむところが下過ぎるからだ」、「しゃがんでしまったらできん」等と細かい指導が入りました。

 

祖父が私を叱る時、合わせてよく言っていたのが「そんなことをしていたら、おまんま(ご飯)を食べさせんぞ。」の言葉。怪我をした時にも言われました。強引に手伝わされた結果、怪我をする羽目になり、さらに食事抜き。今なら、虐待と思われるかも知れません。

 

小学生になる前後ことなのにいろいろ憶えているのは、祖父の鬼気迫るような怒号が恐ろしく、安易な失敗をしてはいけないと記憶に深く刻まれたのも理由だとは思います。でも、厳しくて近寄りがたい祖父が私は好きでした。約束したことはきちんと守る人でした。ある時、何かをしたらヤギの乳を飲ませてやると言われて、頼まれたことはやったのですが、別のことで強く叱られたことがありました。泣きながら部屋に閉じこもった私に、まだ怒りが収まっていないはずの祖父が、絞ったばかりのヤギの生乳を持ってきてくれたのです。そして、ぶっきらぼうにたった一言「ほら、飲め。」と器を手渡してくれました。

 

当時は気がついていませんでしたが、失敗するまで口出しはせず、失敗すれば放っておかずに何らかの対処方法を教えてくれる、できたことにはぶっきらぼうに見えてもきちんと認めてくれる。その積み重ねで、私は確かに鍛えられ、育てられたように思います。

 

手伝うのは農繁期の日曜日くらいなので、月に多くて2回程。夏休み等に父母と離れて1週間ほど泊まった時にも少し手伝いをすることもありました。それでも学校の授業日数と比べれば格段に少ないはず。それなのに、祖父と一緒の経験がしっかり私の中に残っている濃密さ。もしかしたら、学校よりも多くのことを祖父から学んだようにすら思えます。

 

さすがに小学校の高学年の頃には、母方の実家でも少しずつ機械化が進み、田植えや稲刈りの手伝いもなくなっていきました。そして少しずつ、母の弟に農業を任せるようになっていきました。

 

 

ところで、祖父が私を叱る時の決まり文句「そんなことをしていたら、おまんま(ご飯)を食べさせんぞ。」ですが、後になってから、これには祖父の強い思いが込められていたのだと思うようになりました。「美味しいおまんまを作る」ことに努力を惜しまない人でした。台風が来るとわかった時には、母の心配をよそに、一人田んぼや牛舎の様子を見に行くような人だったそうです。祖父の家に泊まった朝、祖父が家にいた記憶はありません。既に農作業を始めていたのです。昼食に帰ってくることはありましたが、のんびり横になって休む姿を見たことがありません。

  

米作りのそんな様子を知っていたからでしょう、祖父の作った米は格別美味しいのだ疑うことはなかったです。当時は今と違って精米の技術も低く、ごくたまにガリッと小石を噛むのには閉口しましたが、それでもキラキラ輝くご飯粒の魅力は忘れられないです。

  

そのご飯はかまどで炊かれることもありました。父母兄弟の家族4人でお邪魔したときなど、炊く量が多い時に使われてたようです。私の周囲で、炊飯器が広く流通していた1970年代後半でも、かまどを使っていた家は他に知りません。かまどの火の番を任せられたこともあります。火が弱かったり、強かったりで叱られ、あの決まり文句を言われましたこともあります。でも、そんな風にして炊き上がったご飯は、祖父が自慢気に言った「おまんま、美味いだろ。」の言葉通り、美味しいのです。内心(僕が火の番をしたからだぞ)とも思いましたが、強がっていただけなのは自分でも気づいていました。

 

 

そんな祖父も私が高1の秋に亡くなります。亡くなる直前には、病院のベッドでずいぶんと痩せて、小さくなった姿を見るのがつらかったです。それでも田んぼや畑、牛のことを気にかけていました。

 

その後、変な名前だと思っていた「(水稲)農林〇号」について、少しずつ知識が増えていきました。祖父がいつ、何号を育てたのかはわかりませんが、米の長い系譜の中でそれをに出会い、丹念に育てていたのは間違いないことでしょう。

 

今回のブログを書くに当たって少し調べ直してみました。

何かの実験に使うような番号だと思ったら、米の品種改良を続ける中で次々開発される品種に付けられていった名前とのこと。その多くは新しい品種開発に伴って消えて行ったそうです。水稲農林1号は1931年に登録され、その後、2号、3号、と続き2016年には農林474号まで認定されていることもわかりました。有名な品種として広く定着している「コシヒカリ」は農林100号として1956年に、「ササニシキ」は150号(1963年)、「ヒノヒカリ」は313号(1991年)に登録されています。

 

しかも、水稲農林〇号とは国の認定であり、それ以前に都道府県や地域、民間で認定された品種名(番号)があります。「ヒノヒカリ」だと、愛知40号(黄金晴)とコシヒカリ(農林100号)を掛け合わせるといった具合です。一体、私達が今食べている米にはどれだけの研究の失敗や成果があるのでしょう。美味しくても安定した量産が望めない、病気に強いが味が落ちる等々選択の基準もさまざま。安定した人気を誇る「コシヒカリ」も風で倒れやすいことを考えれば、コシヒカリだけを育てるのには不安があります。台風が直撃でもすればその地域の収穫がほとんど見込めなくなることもあるでしょう、同じ時期に同じ品種だけを育てるリスクは大きいです。また、消費者の嗜好や天候の変化が大きく影響します。一時期あれだけ人気だった「ササニシキ」も度重なる冷害によって人気が落ちましたが、その後ササニシキの系統は別の品種に引き継がれようとしています。

 

新種一つ育てるのに最低1年。その品質の確かさを調べるのに数年。国で474を数える号数、都道府県や地域、民間で使われた号数、そこにどれだけの努力があったのか。祖父の努力もきっとそこに貢献していたのでしょう。 米は祖父の時代の米作りよりもっと美味しくなったは思います。小石を噛んでしまうのも、もう何年も昔の話になりました。今でも、祖父のようなこだわりを持って米を育てる人はいるでしょう。でも、その姿を身近に感じることが減ったことに少なからず寂しさを感じます。

 

 

 

炊く技術もきっとそう。かまどを使っていた時代や、初めて炊飯器が売り出された時代に比べ大きく進化したと思います。今なお、新しい炊飯器の製造にかまど炊きの美味しさの解明とその原理の応用した新しい技術開発が続いているようです。そうした中で検証されて確立されてきただろう技術。

 

食べる側としては美味しい米が最優先でしょうが、そのときの米粒の輝きには、美味しさだけに収まらない理由がある気がします。美味しさとは別の美味しさのある米と言うと変な表現ですが、食べる者が、作る人、炊く人にも思いを馳せられるようなご飯粒。その憧れを満たしてくれる米、つまり「おまんまを食べさせんぞ。」「おまんま、美味いだろ」の声が聞こえてくるようなお米への憧れが、私には根強くあるのです。

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お題 「#わたしの推し米

 

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