tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

「後悔しないように」じゃなくて「後悔しない程度に」でもいい

今週のお題「部活」。高校時代はサッカー部でした。でも、受験を控えた3年生になる前に辞めました。受験勉強の時間確保を一番の理由にしてはいましたが、体力的、技術的な限界や、チームに対してのいろんな思いがあったのも事実。

 

5kmを満足に走れないことも、一つの原因でした。25分を切るのが難しい上、走っている途中に背中や腹に痛みが出てくるのです。腹筋、背筋の力不足とのことで、練習以外でも筋トレをしてはいましたが、これといった成果は出ませんでした。自分の努力不足や限界も考えました。3年生になれば通常はレギュラーになるのですが、私がレギュラーになってもチームの足を引っ張るのではということも考えました。

 

また、サッカーが無理なことなら他のことに注力した方がいいのでは、とも考えました。進学希望だったのにも関わらず、成績も伸び悩み、とても合格圏内とは言えなかったです。自分で良い調子だと思う時があっても、客観的に見れば合格ラインには届かないままなのです。

  

部活も学業も、今一つ。それなら本来の希望である進学を優先して、部活を辞める選択をしたのです。とは言え、遊ぶ時間も欲しかったという理由も隠し持っていました。それを声高には言えませんでしたが、映画やパズル、下手な小説への興味が、サッカーの興味を上回ってきてたのは確かです。

 

顧問の先生に、退部の話をした時、その辺は簡単に見透かされてしまいました。「そんなに勉強の時間が必要なのか。」と聞かれて「勉強だけではないですが、疲れて勉強ができないこともあります。」と濁した答えをすると「まぁ、遊ぶ時間も欲しいだろうな。」とも。嘘がつけない自分を恨みつつ、ちょっと返事に困っていると、「ともかく、受験は頑張れよ。」と言われ、了承を得ました。

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もし私がチームの主力選手になれていたら、或いは成績が志望大学の合格圏を十分にキープできていたら、違った結論を選んだかもしれないですが、その時の状況から考えて、bestではなくとも、betterな選択ではあったと思います。

 

1年生の時に、担任、保護者の三者面談で「(三流でなければ)合格できる大学は無い」ときっぱり言われたものの、2年の時には「このまま頑張れば、高望みしないなら希望大学の合格圏に入る可能性もあります」と言われるようになっていました。部活を辞めたせいもあってか、高校3年の夏前には「通常の力が出せたなら合格も可能」と、薄い色の判子をもらった感じになりました。

 

サッカーを続けていたら、その成績になれなかったのかと聞かれれば、微妙なところだとは思います。ただ、映画やパズル、下手な小説には手を出せていなかっただろうとは思います。そうであったなら、また違った人生にはなっていたはず。少なくとも、このブログに「パズル」や「映画」のカテゴリーはなかったでしょう。

 

受験直前も、合格の可能性もあるという判定だったのですが、本番にあまり強くない私は、共通一次試験の数学と英語で大ポカをやってしまい30点以上低い自己採点になったのです。予備校時代は、成績の多少の向上もあって、(映画やパズル等もそれなりに楽しんでました)やはり本番でのミスも少しあったものの、ぎりぎりで希望大学に引っかかった感じ。

 

 

しかし、人生何がどこで何が影響するかわかりません。サッカーも映画もパズルも、その後の私を後押ししてくたのです。

 

5km25分切れるか切れないかという走りは、働き出した頃に5kmを30分を切って走れるのなら是非にと、片田舎の駅伝大会で選手に抜擢される理由になりました。決して速い方ではなかったのですが、チームには貢献できたようでした。また、別の小さなイベントでリフティング数のチャンピオンになったことも。

パズルは、大学時代に自らサークルを立ち上げました。パズルの制作会社から原稿依頼があり、採用され、原稿料をもらったこともあります。

映画は、ネットに書き込んだ感想がラジオで取り上げられ、ごく一部ながら話題になったことも。

 

見方を変えれば、頑張ったと言っても所詮その程度という言い方もできるでしょう。

でももし、高校時代にサッカーを続けていても十分な成果が残せたとは思えません。もし、パズルや映画に見向きもしなかったなら、きっと今よりつまらない自分になっていた気がします。それで生計を立てるほどにもならなかったですが、それでも、人生は確かに豊かになったと思います。

 

後悔しないように最後まで頑張る」のも一つの生き方だとは思います。でも、一つのことに打ち込んで成功する人と、成功できなかった人とでは、後者の数が多いと思います。何故なら、常に本当のプロになれる人は一握りの人だから。

 

では、その一握りに慣れなかった人は、失敗者なのかと言えば、そうではないと思います。サッカーの試合を一緒に見ていても、一つのプレーに感動できるかどうかは、サッカー経験の有無でも違ってくるようです。知識の有無でも違ってくるでしょう。つまりは、やった分だけの得られるものがあると思うのです。私の場合、パズルや映画も同じ。

何かを、失敗でも成功でも、自分で納得できるところまでやれたなら、また次だと前を向けるなら、そこで一度やめることも間違いではない、そう思います。まったく後悔がないとは言えないまでも、「(前が向けないほどの)後悔をしない程度に区切りをつけて頑張る」のも十分にありでしょう。

 

それを弱い人間という人もいるかも知れません。

でもね、成功した一握りの人も、成功できなかった人のおかげであるとも思うのです。成功した人の輝きは、成功できなかった人の数の多さとある程度の相関関係があると思います。届かなかった人がいるからこそ、届いた人の輝きが増すと思うのです。全員が成功できて、失敗した人がいないことに、どれだけ世界の注目が集まるというのでしょう。

 

たとえ満足いかない結果だったとしても、それは決して無駄な努力ではないです。

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」

我ながら、このブログの副題、上手くつけたなあと、時折に自画自賛したくなります。