tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業14.「過ちて改ざる、是を過ちと言う」(孔子)をさらに考える。

これは、人間讃歌の言葉ととらえています。

「誰しも過ちを起こすもの。しかし、改めるなら、それは過ちではなくなる。仮に改めることなく放置された過ちでも、それに気づいて改めた時点で救われるのだから、この言葉は、失敗をしたすべての人への励ましと応援である。」

そんな主旨で、小論文(800字)を書きました。

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正確に言うと、授業ではなく、受験用の小論文の学習と言うか課題です。他にも幾つか小論文を書いて提出し、先生から添削を受けた記憶があります。受験を控えた高3の秋頃以降だったでしょうか。

 

添削には、「それで何が言いたいのですか、あなたの主張は何ですか?」といった一文が書き加えられていることが多かったです。正直、私はそれにかなり悩んでいました。当時「私は~~だと考えます。」という終わり方ではいけないのだろうかという疑問がぐるぐる頭を回っていました。

 

私としては、導入に始まり、2,3の視点や論点を揚げ、結論を書くようにしていたつもりなのですが、先生の話によると、視点や論点がずれていること、そして、結論が課題からずれているとよく指摘されました。要は話が脱線しているのだそうです。

一方で気休めなのかも知れませんが、書いている内容自体は面白いのだから、視点、論点、主張がずれないようにすれば、いい小論文になるとも言われたのです。

 

文章書くのには多少の自信はありました。高校2年の時にショートショートを創作して、友達に読んでもらったり、雑誌に投稿したりしていましたから。

つまり、「文章を書くのが好き」や「面白い文章」と「文章が上手い」、「主張が明確」とは大違いというわけです。小論文に対して持っていた少しばかりの自信は、脆くも崩れてしまいました。

 

さて、「過ちて改ざる、是を過ちと言う」についての続きです。

高校時代は「失敗をしたすべての人への励ましと応援である。」という結論で終わっていました。しかしその後、その部分はそのままに、幾つか付け加えるべき解釈を持つようになりました。

 

「改めれば過ちで無くなる」という過ちに陥ってはいけない。むしろ、本当に改められたのかと「改めをしなくなる事こそ過ちである。」という次第。

それは、

「改めることなければ、過ちに気づけず。」それが「過ちて改ざること」であり、「是を過ちと言う」。

であり、

「過ちに気づけぬこと、是を過ちと言う。」

でもあるのではないかーー。

こうなってくると、ずいぶんと厳しく、身が引き締まる気がします。

 

慈悲に満ちていると思われた孔子の言葉は、自分を律する言葉とセットになってこそ、本当の価値を持つように思うのです。記事の始めに「人間讃歌の言葉ととらえています。」と書きましたが、「改めようとするなら誤った解釈にも気づけるだろう。」と言う意味を含んでいる気がします。「人間は考える葦である」(パスカル)と同様の仕掛けを感じました。

 

さて、誤字脱字が無いかもう一度確かめてから、この記事を公開します。

 

え?あら?またまた、視点や論点がずれているような・・・。

やはり、35年経っても、小論文は苦手なままかも知れませんね。