tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

自転車から振り返ってみた夏らしい夏

今週のお題「夏を振り返る」。

一番の原因は、自転車で乗り回すことがなくなったからなのかも知れません。或いは、どこに行っても効いている冷房に慣れてしまったことや、暑過ぎて外出をためらうのが増えたことも影響しているのかも知れません。

 

高校の頃、いや、私が10代から20代前半までに感じていた、夏らしい夏をもう何十年と感じられないままになっている気がするのです。

 

入道雲雄大積乱雲とはよく言ったもので、遠くの空に入道雲がぽつぽつ見えていたのが、頭上に近づくにつれてこんなに大きかったのかと驚くほどになります。しかもその先端はまるで機関車を思わせるほどの蒸気でむくむく広がっていき、留まることを知りません。圧倒される感じになります。

f:id:tn198403s:20190908154208p:plain

そろそろ夕立が来そうだなと思いつつ自転車を走らせているうち、真夏の日差しは雲に隠され、後ろを振り向けば、道の遠く向こうは白っぽいカーテンがかかったような景色になっています。あの辺はもう雨。それがだんだんと近づいてくるのがわかります。強い雨だと、雨より先に雨の音が届くこともあります。来るぞ来るぞと雨音を背後に聞きながら必死に自転車で逃げるも、難なく追いつかれ、日に焼けた腕や頭、服、自転車、何もかもが、大きな雨粒によってばたばたばたと音を立てて叩きつけられ、一瞬でびしょ濡れです。

 

あまりに見事な濡らされ方に、あきれて笑ってしまうほど。強烈な夕立はそんな感じです。街中であれば、どこかの軒先やゲームセンター、自転車置き場等に退避できますが、それはそれで、夏らしくない行動をしてるようで残念感があるのです。川の土手上の道や田んぼだらけの中を抜けるバイパスを走っているときには、雨をよける場所もなく、濡れるしかありません。でも、どこか楽しんでたように思います。今思えば、雨に濡れることにずいぶん平気だったのでしょう。

 

しばらくすればぴたりと雨は止み、変わってまた夏の日差しが体に当たります。夏の薄着なので、それで結構乾くのです。しかも自転車を進めていると、風に当たりっぱなし状態で、体の前側の方から乾いてきます。背中の方まで乾くと、もう寒さもなくなります。なかなか乾かず困るのが、股間。サドルに座っていると、乾きはかなり遅いので、立ちこぎです。やがて、乾かずともサドルに座って冷たく感じないようになってきます。それで、ひとまずOKにしてました。最後、靴の中がぐちょぐちょのままですが、これはもうあきらめてました。

濡れそぼった体がどんどん乾いていくのも、夏らしさの一つでしたね。

 

そんな入道雲の度の過ぎた仕打ちに遭遇する経験をもうずっとしていない気がします。その原因は、自転車に乗らず車を運転するからであり、快適にいられる室内に居られるから、暑すぎる中敢えて外に出たいと思わなくなったから、なのでしょう。多分。

でも、映画『天気の子』にあったように、容赦なく降り続ける雨、雨上がりなのにまだ曇ってる空、まる一日晴れ間のない日、そんな天気が増えたようにも思います。どっと雨が降り、ぱっと止み、さっと日が差す、そんな夕立に最近出会えてない気がするのは、私の思い過ごしでしょうか。

 

そう言えば、夏の匂いもしばらく嗅いでないです。

真夏の太陽に照らされて、息苦しくなった地面が、突然の短い夕立に息を止められ、雨雲が去り再び太陽に照らされた瞬間、ぶわっと息を吹き返したかのように、立ち上るアスファルトやセメント、土や草の匂い。

 

雨上がりには、一気に老けたような入道雲。黙々と膨れ上がっていたのとは違って、空に馴染んだような輪郭が夕刻の迫る陽に赤みを帯びている風景。BGMにどこからかヒグラシの泣き声。それらをまだ乾ききっていない服をまとって眺め聞くーー。

 

10代から20代前半まで当たり前だと思っていた、そんな夏らしい夏を振り返ることすらしてなかったなあ。そう思いました。