tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn13.「僕の前に道はない」のか、「道は開かれている」のか。

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出來る」は高村光太郎の詩『道程』の一節。これは出典がはっきりしています。

 

もう一つ、高校時代に知った「道は開かれている」の言葉の出所がはっきりしません。私の記憶の中では、ドラマ『エデンの東』で「ティムシェル(timshel)」という言葉の訳として残っているのですが、例によって記憶の自信が無く「映画7.3つの『エデンの東』」では「ティムシェル(timshel)」の言葉を紹介するだけに留めていました。

その後も「道は開かれている」と「ティムシェル(timshel)」とを結び付けている情報を探していましたが、2カ月経ってもこれというのが見つかりません。でも、『道はいつもひらかれている』という古谷綱武氏の詩とも随筆ともいえそうな作品を見つけました。そこで「ティムシェル(timshel)」はひとまず置いて、先に高村光太郎氏と古谷綱武氏の作品を元に、書きたかったことを書こうと決めました。

 

果たして、「僕の前に道はない」のか、「道は開かれている」のかーー。

 

結論から先に言えば、既に高校時代に出ています。どちらも正しい、が答えです。

私は、こう解釈したのです。

「僕の前に、(目に見える)道はない」

(目には見えていないだけで、)道は開かれている」

二つの言葉は、一見正反対のように見えて、究極的には同じ。

 以下、二つの作品をそれぞれに見てみます。

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(1)「僕の前に道はない」について

高村光太郎の『道程』には、102行の全文と、9行の作品とがあります。ここでは9行の作品を引用してみます。

TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT

『道程』

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

LLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLL

繰り返し使われた「道程」は、「 みちのり。行程。」 「 ある所・状態へ行き着くまでのみちすじ。過程。」との意味であって、行き止まりではありません。また「この遠い道程のため」との言葉に、行き着くべきある所・状態とは、今いる場所ではなく、まだ紆余曲折しながらでも、道は見えなくても、続く先があると受け取れます。

「僕の前に道はない」と絶望的な言葉で始まりながら、最後には、その先への奮起を促す応援歌となっているように思います。 (見える)道はなくとも、今いる場所が行き止まりではなく、続く先があるのだ、ここから先は一人でも歩むのだとーー。

 

自分勝手な解釈でしょうが、これを別の言い方にしたのが、次に述べる「道は開かれている」だと思うのです。

 

 

 (2)「道は開かれている」について

次に、最近になって見つけた『道はいつもひらかれている』という古谷綱武(ふるや つなたけ)氏の作品の一部(冒頭と最後)を引用します。

TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT

『道はいつもひらかれている』 

道は、すべての人の前にひらかれている。
その人に、やる気があるかないかだけである。 

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、道がとざされていると思う人の前に道はとざされている。自分はだめだと思うひとはだめになっていく。

 道は、すべての人の前にひらかれている。

しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにないのである。

 (中略)

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、世間に自分というものをあやまりなくわかってもらおうなどという期待は、持たないほうが良い。そうした期待に生きたいのであったら、世間の因襲に全面的に屈服して生きるよりほかにないのである。それは自分のない人間になることである。

 

わかってもらえようともらえまいと、そんなことは問題にしないで、あくまでも、自分の真実にこそ生きつらぬいていこうとするとき、世間というものは、あんがい思いがけなくかえって自分を理解してくれるものなのである。

LLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLL

 

この作品については、はっきりした記憶がありません。タイトルの「道はいつもひらかれている」や文中の「道は、すべての人の前にひらかれている」の言葉は聞いたことがあるように思いますが、全文を読んだのはネットで見つけた数日前だと思います。

 

 作品を読んで感じたのは、まず「道は、すべての人の前にひらかれている」という言葉は、この作品以前より世で使われていた言葉のように思えること。もう一つは、その後に「しかし」と続く言葉が「道は、すべての人の前にひらかれている」と油断するのを戒めていることです。そして戒めを幾つも述べた最後に「世間というものは、あんがい思いがけなくかえって自分を理解してくれる」と読者の背中を押しています。

要約すれば、「道はある。心してその道を進む決意をせよ。信念を持って進んでいれば、世間はわかってくれるものだ。」となるでしょうか。

 

 

(3)「僕の前に道はない」と「道は開かれている」

この二つはどちらも、今後どうしようかと悩む者への応援歌と言えるでしょう。

前者は悩む者自身の決意を固めるための声として、見えない道にひるまず、これまで辿ってきた道信じて、その先を切り開けと語りかけます。後者は悩む者への声掛けとして、道はあるのだから油断せず、ひるまず進みなさいと語りかけます。

高校時代に「ティムシェル(timshel)」を「道は開かれている」と解釈し、究極的には同じとしたスタンスは、古谷綱武氏の作品にも共通しているように思いました。

 

人生を続けていると、これまで見えていた道が見えなくなったり、無くなったと思えてしまうことは、何度もあると思います。私もそうです。自分が途方もなく無力で、これまでの努力が無意味なものだったと思えてきます。そんな時、自分に、今、「僕の前に道はない」ように見えても「道は開かれている」のだ、僕の後ろの道を今一度確かめてみよ、という感じで言い聞かせてきました。

 

人生において無意味なものなど一つもありません。もちろん、人生のすべてを一つずつ確かめての話ではありませんが、これまで生きてきたことによって、今、こうして生きられている訳で、自分を無意味だと考えていることにも、意味があると思うのです。

何と言っても、考えている以上、自分が人間であると証明している訳ですから。

tn10.「人間は考える葦である」(パスカル)を考える」書いた通りです。

ブログタイトルの下に「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」と偉そうに書いていますが、このブログを続ける内に、自分でも本当にそうだなと思えることが度々ありました。今回の記事もそうです。

 

ただひたすらに突っ走った3年だったと、ほとんど顧みることもなかった高校時代の経験が、自分史の中でたくさんの原石であったと思うようになってきました。経験したことを思い出すことと、それが今の自分にどう影響しているかを考えることは、見失ったと感じる道をぼんやり示してくれるように思います。

 

ということで、この記事で思いついた言葉を記しておきます。

「人生の道に迷った時、経験という古い地図を開いてみるといい。その地図で遠くまで見ることはできないが、丹念に見れば、ひとまず次の一歩をどこに踏み出せばいいかのヒントにはなる。」

 

 

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<※余談 ここで、もう一度「ティムシェル(timshel)」>

ところでこの間「ティムシェル(timshel)」について調べたところ、ジョン・ スタインベック著の『エデンの東』に登場するヘブライ語とのことです。この訳と解釈は様々で「汝(なんじ)、治むること能(あた)う」や「汝、意思あらば、可能ならん」との訳、フィギュアスケート町田樹選手が「“自分の運命は自分で切り開く”という意味だと解釈しました」 と語ったことなどが知られているようです。

 

私は高校時代にドラマ版『エデンの東』で知り(もっとも、当初は〝ティム・ショール”と聞き取っていました)、「ティムシェル(timshel)=道は開かれている」と受け取り、今も胸に刻んている言葉です。でも、前回ブログに書くのに、その解釈を確かめようとしましたが、それに触れた文章には、一度も出会えないままです。出典は合致していますし、大まかな意味でも一致しているようには思いますが、どこかにずれがあるような気がして、落ち着きません。

 

さらに調べると、旧約聖書の「創世記第4章 カインとアベル」の話が元になっているのだとか。ドラマ版『エデンの東』でどんな風に訳されていたのか、とても気になりますが、それもまだ確たる情報を得ていません。さらには、原作者のジョン・スタインベックが奇妙な解釈してしまったことで、本来とは違う意味が世に広まっってしまったという説も見かけました。

 

変な話ですが、「ティムシェル(timshel)=道は開かれている」を調べようとして、道に閉ざされた感じです。ヘブライ語はわからないし、聖書の話が元になっているとなると聖書に書いた意図もあるはずなので、あまり勝手なことを書かない方がいいのかなぁ?とも思います。

 

え?経験という古い地図を開けって?

開いてはいるのですが、どうにも、線が薄いし、目も弱くなってるらしくて、丹念に見ることが難しいです・・・。まだ、時間がかかりそう。

でも…。調べたおかげで、ブログに書こう考えていた別の記憶との関わりも気になっているので、いつか再び取り上げるかも知れません。