tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業10.てんで話にならないテストの点数

この時期、中学・高校では、期末テストの答案も返り、悲喜こもごもの結果を飲み込み消化して、夏休みの計画を練っている頃でしょうか。

 

高校時代の定期テストには、赤点(不合格点)がありました。確か40点未満だったと思います。赤点になると、補習と再テストがあったはずです。その再テストでも駄目だったら、再々テストがあったのかな?その辺、ちょっと記憶が曖昧。

 

私も何度か赤点になったことがあります。私「も」としましたが、高校3年間で赤点をとったことのある人と一度もない人とではどちらが多いのでしょうね。やはり一度もない人が多かったのかも。私もそんなにたくさん赤点をとったわけではないと思うのですが、この辺の記憶は定かではありません。それよりも、赤点にならないための対策の方が記憶に残っています。

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(一)

一つは、「テスト答案の点数を隠さない」でした。点数が高かろう(滅多にないです)と低かろう(よくありました)と公開してました。テストの点数部分を折り返して見えないようにする人は多かった気がしますが、それはしないでおこうと決めたのです。点数を公開したら赤点にならない訳ではないのですが、必要以上に赤点を恥ずかしいと思わないでいようという気持ちはありました。答案を直すときも、隠しているとなんだか悪いことをしているみたいに思えてきそうで、ただでさえ落ち込みそうな点数なのに、さらに沈んだ気分で直すのも辛い気がしたのです。赤点を必要以上に恐がるのはやめよう、自分の成績を冷静に判断しよう、そんな感じでした。

 

クラスメイトからも、点数を聞かれたり、それで責められたり、ということもなかったように思います。あったとしても「よかったな」「残念だったな」といった一言感想くらいでした。

 

むしろ、点数を隠さないことに突っ込みを入れてきたのは一部の先生でした。回数こそ少なかったですが「恥ずかしくないのか」、「そんなもん、見せるな」、「話にならない点数」等の言葉は、薄いガラス製の10代少年の心には、結構深く刺さっています。でも「これが自分の実力なので」「隠しても点数は変わらないので」と受け流していました。

 

後になって考えてみれば、先生の突っ込みは、私の点数を責めるというより、先生からしても見たくない点数だったのでしょう。見方を変えれば、生徒のテストの点数は、先生の教え方の点数でもあります。低い点数は見たくないのも当然かも。もしかすると、クラスメイトにからかわれるという心配があったかも知れません。

 

点数の公開で、赤点が減ったかどうかは微妙ですが、どうしたって、ダメなときはダメと開きなおり、落ち込むより前を向くという気持ちに繋げるには役立った気がします。点数を隠そうとすると、それにも神経を使ってしまい、再起へのモチベーションも下がってしまうのではないかと思います。

 (え? それで再起できたかどうか?それも微妙かも・・・)

 

(二)

赤点を回避するもう一つの方法は、「できる限り回答する」です。これは生物の先生の言葉から学んだ気がします。「わからなくても答えることが大事なときもある」(「授業1.無機物と有機物」参照)を活かしたという感じ。

 

中でも、試験最中に赤点を覚悟した英語のテストで、赤点回避に残り時間いっぱいをつぎ込んだことが記憶に残っています。配点の多そうな英文和訳の問題でした。意味の不明な単語がたくさん過ぎて、どうしたって点がとれそうにありません。その時点での予想点は、35点あるかないか。

 

苦肉の策として、不明な英単語はそのまま使って和訳?しました。また、推測した単語は推測理由もテスト答案の裏に書きました。そして、最後には、「赤点にならないために書きました。少しでも点数になれば嬉しいです。ふざけて書いたわけではありません。よろしくお願いします。」といった感じの文章も書き加えました。

 

結果…。赤点回避に成功です。記憶では42点。「赤点にはなってないから」と一言付け加えて、テストを返してくれました。英文和訳の回答に期待以上の点数(確か5点だったはず)を加えてもらえたのです。それがなければ赤点でした。

どちらかというとテストの出来具合については、友人にもあまり話さない私でしたが、この時ばかりは、一部英単語をそのまま書いたことを、恐らく赤点になることとセットにして話していたので、そのことを知っていた友人から、ちょっとした歓声がありました。

回答に努力が見えたから点をくれたこと、次はこうはいかないこと、などの話もあった気がしますが、その辺りはよく覚えていません。

 

本来なら、点で話にならないが、努力を見てもらえた結果の点数でした。 

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この経験は大学時代にも、思わぬ形で活かされることになりました。ある講義に欠かさず出席していたものの、内容があまり理解できていないままテストを受けることになりました。ノート持込みが可能のテストだったので、単位はもらえると思いましたが、まだ十分には学習できていないと判断し、「この講義の内容がとても重要なことだとはわかりましたが、まだ理解不足だと痛感しているので、可能なら来期にもう一度受け直したいです。その際はよろしくお願いします。」という旨だけ書いて、早々に一番乗りでテスト会場を出たのです。

 

後日、教官に呼び出されました。てっきり叱られると覚悟したのですが、「わざわざ同じ講義を2度も受ける必要はない。君の時間が無駄になる。その時間に別の講義を受けた方がいい」「思いは買う」「課題を出すからレポートを作ってきなさい」等々の話でした。それでも、「納得のいく評価を受けたいので、もう一度講義を受けたいです。」と話すと、「納得いく評価になるかどうかは君のレポート次第だ」と言われ、課題を渡されました。テスト以上に時間のかかるレポートとなりましたが、それなりに学習できた手応えもあり、納得のいく評価を得ることができました。

 

似た経験は、他にも幾つかあります。懲りないのか、味を占めたのかは、わかりませんが、「わからなくても答えることが大事なときもある」は納得です。ただ、どう答えるといいか、やってみないとわからないというリスクはあります。上手くいったことは書きましたが、うまくいかなかったこともあります。それでも、経験上、いい方向に進むことが多いように思います。

 

一言でまとめるとこんな感じでしょうか。 

正解かどうかに関わらず、正直な思いを伝えることで、事態が好転することはある。(※ ただし、悪化する覚悟は必要。)