剣道は、高校の授業の中で一番苦手でした。火曜日の一コマだけだったと思うのですが、授業が始まるまでは(剣道の時間にならないでくれ。)と思い、授業が始まれば(早く終わってくれ。)と思ってました。
週一回の授業で、十分な基礎が身に着くはずもないし、ましてやそんなに上手になるはずもありません。上達すること、相手に勝てることよりも、武道の精神を学ぶためにするという話だったと思うのですが、私にとっては「微分・積分」よりも理解できない科目でした。
防具をつけているとはいえ、叩かれるのはもちろん、叩くのも嫌でした。理由は単純で、痛いのが嫌というのと、痛い思いをさせるのも嫌だから。そのため、相手のある練習では、いつも剣道部員や上手な人と当たって欲しいと思っていました。
ちょっと話がずれますが、『機動戦士ガンダム』の、ランバ・ラルとアムロの対決のシーンで、上空からアムロがラルの操るグフを狙ってビーム射撃をしたときに、ラルが「正確な射撃だ。それゆえにコンピュータには予想しやすい。」とアムロの力を認めつつ、ギリギリの体勢でかわします。それを見たアムロは「よけもしないのか?」と驚きます。
剣道の打ちこみをされる時に、そのシーンを思い出すことが幾度もありました。上手な人は、狙ったところにピタリと当てられるようなのです。顎の出し方で被った面の角度を一定にすると、それほど痛みを感じることなく当ててくれます。ラルの台詞を借りるなら「正確な打ち込みだ。それゆえ痛みの少ない打たれ方も予想しやすい。」と言ったところでしょうか。
しかし、私を含む上手ではない人の打ち込みは、竹刀の振りがバラバラ。同じ場所を狙って、同じように竹刀を振り下ろしているつもりなのに、ふらふらしてしまいます。竹刀の軌道が変にずれて、耳に直撃するとかなりの痛みです。耳が真っ赤に腫れあがっているのではないかと思うほど。それが怖くて、振り下ろされる際にすくんでしまうと、今度は通常の面打ちさえ後頭部や頭頂部で受けてしまうことも。これがまた脳天から足もとまで痛みがズッキーン!と走り抜けて涙が出そうになります。
それを身を持って知っているせいで、下手な打ち込みをしてしまうのが申し訳ないというか、恐いというか・・・。でも、こわごわ振り下ろすと失敗は更に多くなってしまうし、先生からお叱りを受けるしで、結局、狙わずとも思いっきり耳に当ててしまったことは何度もありました。そして、上手な人ほど、それを黙って耐えてくれるのがまた心痛くて、内心「ごめん、ごめん」と思いながら口で「めーん!めん、めん」と言ってましたね。
私とは別世界にいる、初心者でも果敢に打って出るも人いました。きっと上達を目指して痛みも恐れず取り組んでいたのでしょう。その向上心には尊敬の念を抱くこともありましたが、私にとっては上級者の人より恐い相手でした。恐いから更に身がすくんでしまうせいか、打たれるとやたらと痛い。こちらからの攻撃は力も狙いも中途半端になるためか相手の痛い所に当ててしまう。それで時には、相手を本気で怒らせてしまったかと思うほどの勢いで迫られたこともありました。
何かと辛かった剣道の時間ですが、唯一好きな時間がありました。練習を終え、正座をして、防具を外し、瞑想する時間です。毎時間必ずあったと思います。つい先ほどまで、恐る恐る、或いはパニック状態で、「早く終れ、早く終れ!」と念じながら練習していた後の静寂。「今日一日の練習を振り返り、精神を落ち着ける」という時間のはずでしたが、防具内で蒸されていた顔に、涼やかな風が当たるのが好きでした。極度のストレスから解放され、精神が自分に戻ってくるような安堵感や快感。パニックから生還する経験を何度も味わえたというのは剣道の一番の収穫だったように思います。
後年にドラマ『半沢直樹』の中で、ストレスがたまった時にとことん剣道で打ち合いをするシーンがありました。怒りに任せて竹刀を振ることもあったのですが、練習後に正座をして、防具を外し、すっきりした顔を見せた時、「あ~~、わかる、わかる。」と共感できたのも、授業の収穫と言えるかもしれません。
となれば、少しは剣道で身に着いたこともあると言っていいのかな?
あ、それともう一つ。頭から流れるほど汗が出る時に、手ぬぐいやタオルを頭に巻きつけるのが手際よくできるのも収穫だったと記しておきます。