tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業6. 消費者の権利(アメリカンクラッカー)

習ったのが「倫理社会」だったか、「政治・経済」だったか、記憶があいまいなのですが、「消費者の権利」という言葉は記憶に残っています。

 「消費者の権利」

授業では、消費者の権利が、最近(1980年代前半当時のこと)になって増えたという話もありました。消費者が、商品やサービスを提供する企業側の責任を問えるための権利という感じで習ったように思うのですが、私には、企業側の責任だけではなくて、商品を選んだ消費者の責任もあるはずという、もやっとした違和感がしばらくの間ありました。

 「賢い消費者」

「消費者の権利」とともに「賢い消費者」という言葉も記憶に残っています。「消費者の権利を活用できる賢い消費者になる必要がある」とする話だったように思うのですが、それについても違和感がありました。権利と義務の違いや関係がよくわかっていなかったのも原因だと思いますが、消費者の権利を敢えて使わずにいられるのが賢い消費者のように思えたのです。

 

要するに「買った後で文句を言うな。よく考えて納得してから買え。」とか「買ったものは上手く使え。」って感じです。いやぁ、若かったと言うか、青かったと言うか…。

 アメリカンクラッカー

まだ、小学校に入学する前、カチカチボール(アメリカンクラッカー)が流行っていました。小さい頃、カチカチ音を立てたくて、よく遊んでましたが、鳴らすことができるようになった反面、腕に青あざが残るほどの打撲に負ったり、額にたんこぶを作ってしまったりしてました。「音をリズムよく立てて楽しい、自慢できる」と「よく怪我をする」とが混ざったおもちゃでした。

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そんな体験もあって、私にとって「賢い消費者」とは、「カチカチボールで上手く遊べる」に近いイメージだったのです。しかし、後にそれが間違いだったと思えたことが起きます。

豊田商事の ペーパー商法

丁度、豊田商事の「純金」のペーパー商法が、いろんな噂になっていた頃。「高額な利子がもらえる」と「絶対に破綻する」が話題になっていました。もっとも、その詳しい内容など知る由もなかったので、高校当時は、それが「カチカチボール(アメリカンクラッカー)」みたいな話だと思っていました。上手くいくこともあるだろうが、失敗することもあるという感じ。

 

 強引な売り方が問題になっても、利息分の報酬があるなら堅実な投資とも考えられるという見方もあり、社会全体としては、まだ様子見だったように思います。それが、高校卒業後に、殺人まで起きてしまう事件に発展し、結果、法律の改正にも繋がりました。

 

そんなこともあって、私も、詐欺商法など悪意ある経済行為に個人で対応するには限界があると思えるようになりました。 もし、アメリカンクラッカーに構造的な欠陥があったにもかかわらず、在庫を売りさばくために売られ続けていたとしたら、個人の努力で上手く使えばよいという話にはなりません。そのために消費者の権利は必要と考えるようになったのです。

  

現在の消費者の権利

この記事を書くにあたり、改めて消費者の権利を調べてみました。

1962年に、ジョン・F・ケネディが提唱したことから始まったこの権利は、「安全である権利」「知らされる権利」「選択できる権利」「意見を反映させる権利」の4つでしたが、1975年に「消費者教育を受ける権利」、1980年に国際消費者機構(CI)が「生活の基本的ニーズが保障される権利」「救済を求める権利」「健康な環境を求める権利」を追加し、消費者8つの権利となっています。

  

こうして見直してみると、消費者の権利は、かなり広範囲にまで及んでいるように思えます。1980年代と比べると、現代はお金の流れはより複雑になり、今やキャッシュレス時代を展望するほどになりました。ネット通販など取引の形も多様化しています。SNSの普及は、一個人でも企業を糾弾することや、思わぬ廃業に追い込んでしまう手段にもなり得ます。またプラスチックの海洋汚染やPM2.5等、環境問題は深刻さを増しています。

 

 こうした状況を考えると、何か問題が起きた時のための消費者の権利というだけではなく、既にある問題を見逃さず、解決につなげるための権利という見方に変わってきています。消費者が生産者に対してだけでなく、消費者が消費者を律するための権利でもあるという感じです。

 

とはいっても、私自身、電気の消し忘れや、エコバッグを面倒くさがる、電気器具の取扱説明書を読めてない、スマホの扱いが分からずあきらめる等は多いです。賢い消費者を自認できるようになりたいものですが、この歳になっても先はまだまだ長そうです。

 

<追記 2021年2月5日>

私も読者になっているブログ『カメキチの目』(id:kame710)さんの記事、

kame710.hatenablog.com

で、スペインのテレッサ市の市民議会に加わった31歳のシルビアさんの言葉が紹介されているので引用させていただきます。

「国民はいつの間にか、何もかも〈経済〉という物差しでしか判断しなくなっていた。だから与えられるサービスに文句だけを言う〈消費者〉になり下がって、自分たちの住む社会に責任を持って関わるべき〈市民〉であることを忘れてしまっていたのです」

 「与えられるサービスに文句だけを言う〈消費者〉」と「自分たちの住む社会に責任を持って関わるべき〈市民〉」の対比が見事だと思いました。

 

初見、ここでの〈市民〉=主権者=賢い消費者だと捉えました。でも、考えを巡らせる内に少し変化してきました。

 

『カメキチの目』の記事で繰り返し使われていた「今だけカネだけ自分だけ」のキーワードの怖さは、そこに自ら邁進する者達だけではなく、多くの消費者が洗脳され加担することにあるように思います。

 

世に溢れるCMや情報、政策までもが値段の安さや経済効率、便利さ、目新しさを売り込むのが日常です。それは時に人命よりも優先されます。政策すらまともな(意見を噛み合わせ正論を見つける)論議がなくなっています。話題や議席を占有した者が「今だけカネだけ自分だけ」の勝ちを誇り、敗者がそれを羨ましがってその後を懸命に追う構図。ひどい時には、人類社会への貢献すらも「今だけカネだけ自分だけ」に捉えてしまう人がいるほどに。

 

プラスチックも放射能汚染物質も「買ったら(売れたら)あとは捨てるだけ」と思っても、勝手に地球上から消えてくれるわけではありません。自然の連環や人間のリサイクルに乗せられるのか、そこから外れてゴミや汚染物として巻き散らずのか。簡単な二者択一なのに、問題意識の無いまま後者を選んでしまいやすいのが今の世の常です。

 

賢い消費者の連帯は賢い生産者を、賢い生産者の連帯は賢い消費者を育てるものかも知れません。その手掛かりの一つとして「協同組合」があるように思います。そして、かつての人類がそうだったように、しかしそれ以上に高く広い意識で消費者と生産者が一人の中に共存できるのではないでしょうか。「社会に責任を持って関わるべき市民」(=主権者)とはそうした人のように思うのです。

 

消費者と生産者の間により強固なつながりを。それが「自分だけ」の呪縛から、「カネだけ」の妄信から、「今だけ」の無責任から逃れる手段でないでしょうか。