お弁当
私の場合、高校になってから、弁当になりました。小中学校は給食(土曜日は帰宅してから弁当)でした。そんなこともあって、高校時代、弁当を自分で作るという発想も、技術も無く、毎日、母に作ってもらった弁当を持って行きました。(後に学食を利用することも増えていきました)
当時は、保温の弁当箱も保冷剤も普及しておらず、夏は傷むのを心配し、冬は冷えた弁当が少々残念でしたね。お昼にはクラスに一つ、お茶が入った大きなやかんを提供してくれていたように思います。誰かが取りに行っていたのか、職員さんが運んで来てくれていたのでしょうか。
私の弁当箱は金属製の長方形で、お茶はそのふたの中に入れてました。ちょっと飲みづらかったのですが、冷たくなったご飯は、喉を通りにくく、ずいぶん助けられました。それでも、食べ終わるのは、クラスで遅かったように思います。
食べ残すことは、あまりなかったはず。小中学校時代の土曜日や春・夏・冬休み中の弁当をあれこれ理由をつけて残しては、母に叱られたり、残念な顔をされたりすることが多かったのです。それで、学年が上がる度、残すことは減っていきました。更に言えば、幼少時代には、肉嫌い、魚嫌い、野菜嫌い、だった私は、母をずいぶん困らせていました。果物か乳製品以外は、食べるのに時間がかかったり、残したりの毎日だったそう。中学校くらいまで、家では、果物の入っていない野菜サラダは無かったように思います。そんな関係で、いつも家には果物の缶詰がいろいろありました。
ところで、高校時代の弁当が、小中学校時代の弁当と大きく違うのは、持ち運びをすることです。小中学校時代の弁当は、家の食卓や冷蔵庫に置いておきますが、高校になると、カバンに入れて、それを自転車の荷台に固定し、遅刻しないよう、どんどん飛ばします。
切り分けたりんご等であれば、入っていても問題はないのですが、缶詰のみかんやさくらんぼ、黄桃等だと、揺られて潰れ、汁が弁当箱の包み布にまで染み出すことがありました。時には教科書にまで染み込んだことも。そして、缶詰の果物を入れてくれていた母の気持ちも考えずに、汚れたことに文句を言ったこともありました。今、考えれば、何とも自分勝手な話です。
他にも、母の苦労はありました。冷凍食品や化学調味料を滅多に使わず作っていました。私は楽にできるんだから使ってもいいと言っていたのですが、母なりのこだわりがあったのでしょう。卵焼きに使う出汁も、事前に自分で鰹節等で作ったものを使っていました。何度か弁当にうなぎを入れてくれたことがあったのですが、その際も申し訳なさそうに、「(ついていた)タレを使ってもいいか」と聞かれたことがあった程です。
当時は、そうした苦労に気づくこともありませんでしたが、一人暮らしで自炊をするようになった時、ようやく少し、その大変さがわかった気がしました。高校時代って、自分ではかなり成長していたように感じていましたが、振り返ってみれば、まだまだだったことが沢山あります。今思えば、お弁当箱には母の心遣いと自分の身勝手がギュッと詰まっていたように思えてなりません。