tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

遊び13.「私は嘘をつかない」を信用するか、ジョークとするか

自動販売機に興味をそそる飲み物を発見。早速、買って飲んでみました。どれもが100円で買える消費税導入前の時代。ただポカリスエットは120円だったはず。

「おぉ、これ美味しいかも!」

一緒にいた友人もちょっと気になったみたいでした。

「ほんと?」

「うん。僕は嘘は言わないよ。」

「ん~・・・。」

私の言葉を信じたものかどうか、友人は悩んでる様子でした。

「ほんと?」

と、もう一回聞いてきたので、念押ししたかったのでしょう。

「生まれてこの方、一度も嘘をついたことのない僕が言うのだから間違いないよ。」

と、さらに詳しくはっきりした口調で答えます。

「あはは、それ、嘘だろ。」

「なんでわかった。ごめん。正直に言う。今、生まれてはじめて嘘ついた。」

「それも嘘。」

 

 

これは「遊び12.正直地蔵とうそつき地蔵」のパズルから思いついた遊び(いたずら)です。

記事には『正直地蔵でも、うそつき地蔵でも同じことを言う。』と書きましたが、現実の社会にあっては、「嘘が言えない」人も「嘘しか言えない」人もいません。常に、その人が今言ったことが本当なのか嘘なのかを、意識的にしろ、無意識的にしろ、判断を求められます。それは、相手だけでなく、どのような場でどんなタイミングで言ったのかなども判断材料になります。

 

相手が親しい友人で、喉を潤そうと自転車を止めて、自動販売機でジュースを買った時のことでした。一言一句まで正確に覚えているわけではないですが、こんな感じの会話でした。私が買ったのは、「つぶつぶオレンジ」。まだそれほど流通してなかった頃だったと思います。正直、その商品は果汁が薄く、それほど美味しいとは思わなかったのですが、つぶつぶを噛みながら飲むのはこれまでにない食感だったので「美味しいかも。」と言ったのでした。厳密に言えば、個人の感想であって嘘ではないです。

 

結局、友人も買って飲みました。似た感想でした。

美味いとは言わないまでも、何か足りない感じ。

「ぶつぶつオレンジか。」

と呟いたら、ぶふっ!と友人がむせました。

ぶつぶつとつぶつぶでは、全然感じが違うし、不味くなるからやめてくれ、とのこと。

私は、ぶつぶつ不満が言いたくなるという意味だったのですが、確かに、商品名がぶつぶつオレンジだと売れそうな気がしません。

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なお、イラストと実際の商品はぱっと見では似ている気はしますが、別物です。

 

 

また、話がずれました。嘘か本当かの話に戻します。

「僕は嘘は言わないよ。」

なら、ちょっと信じてみようかな?となるのに、さらに詳しく

「生まれてこの方、一度も嘘をついたことのない僕が言うのだから間違いないよ。」

と言うと、とたんに嘘だと思うのは面白い気がしていました。

その場限りの話についてなら、「僕は嘘は言わないよ。」は本当かもと悩んでしまうのに対して、「生まれてこの方、一度も嘘をついたことがない」は全然信用されません。これは「人間はどこかで必ず嘘をつくものだ」という確信があるからでしょう。変な話ですが、信用とは、どこかで必ず嘘をつくと確信している相手に対して、何か限定のことについて信じることと言えるのかも知れません。「遊び12.正直地蔵とうそつき地蔵」にも書きましたが「疑うことなく信じるなかれ、信じることなく疑うなかれ。」です。

 

ちなみに、「それ、嘘だろ。」と言われたときに、別の返事も用意してました。

「嘘じゃなくて、ジョークだよ。」

100%嘘であるとわかることは、もはや嘘としても通用しません。それはジョークの領域でしょう。

高校時代、こんなジョークを知りました。

 

人気の出ない芸能プロダクションが新しい才能を求めて募集をかけると、一人の男が面接にやってきました。

「私は鳥の物まねができます。人をあっと驚かせることができます。」

プロデューサーは、あきれた顔で言いました。

「そんなありきたりの人間はうんざりだ。もう帰ってくれ。」

すると男は

「わかりました。では他の所に行ってきます。」

と言って、面接室の窓から、羽ばたいて出て行きました。

 

人が空を飛べるなんて、嘘というよりジョーク。高校時代にはそう思っていましたが、成人後、その認識を改める歌に出会います。

 

『チッポケなウソついた夜には

 自分がとてもチッポケな奴

 ドデカイウソをつきとおすなら

 それは本当になる』

 

THE BLUE HEARTS の『泣かないで恋人よ』という歌です。

確かに。「人が空を飛ぶ」という話も、以前は誰も信じない嘘か、ジョークだったでしょう。でも、ライト兄弟が飛行機で飛ぶより以前から、ハングライダーや気球で空を飛んだ歴史があります。それでも、飛んだのは人間ではなく機械であるという見方もできました。しかしロス五輪で披露されたジェット・パックは、機械に乗るというより、身に着けるといった感じになり、今やジェットスーツの名で服の一種といった様相に近づいています。もはや、人が空を飛ぶというのもジョークでも嘘でもなくなりつつあるのかも知れません。 


では、「私は生まれて一度も嘘をついたことがない」はどうでしょう?

普通ならジョークなのでしょうが、近い将来その台詞をAIが語ったとき、人は信用するのか、ジョークとしてさらりと流すのか。

1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』でもそれを問い、AIは信用できないと結論を出しました。ただ、映画では嘘の映像を流すプログラミングをされていたAIだったので、AI自らが暴走したと言えるのかは、あやふやさが残ります。

今の時代であれば、将棋のプロでも不正のないAIに勝てなくなってきてます。将棋には多くの場合、局面を左右する一手があります。AIの手筋にはその理由が不明な手もあると聞きます。つまり、AIの出した答えが正しいのか嘘なのか、その検証自体が難しい場合があると言えると思います。

いつか、自動運転車の技術が高まり、車に乗って目的地を言えばその場所に連れて行ってくれるようになった頃、途中の道が不安で「本当にこのルートでいいのか?」と聞いた返事が「私は一度も嘘をついたことはありませんよ。」だったならーー。

信じますか?信じませんか?それともジョークだと笑いますか?

 

またまた、何が言いたいのかわかりづらい記事になりました。

ただ、本当と嘘とジョークの区別は、相手が人間であれ、AIであれ、今後も悩みそうな気はします。

授業12. LHRアンケート「この人を動物にたとえるなら何ですか?」

以前、高校の放送部(多分)からのアンケートのことを書きました。

その際、

1.「生まれ変われるとしたら、男と女どちらがいいですか?」

私の回答は「どちらでもいい。」その理由は「今は男だが、前世では女だったから。」そんな感じ。 

2.「勉強することにどんな意味があると思いますか?」

「勉強は定規のような物、何を手にするかより、どう使うかが大事。」 

3.「あなたにとって、高校時代とは何ですか?」

「天に上る機を待つ龍の住み家」

と、まあ、格好つけた?回答をしてた私。

 

 

今回は、多分高校1年のクラスのLHR(ロングホームルーム)の時間に行われた、動物アンケートについてです。LHRは、クラスメイトの中の何人かが提案者となって、1時限の時間を使って何か企画をするというのがあったと思います。その一環での話。前に立って説明していた人が学生服や春秋服(=夏服ではない)だった記憶と、まだクラスメイトの顔と名前に自信が持てない人もいたので、アンケートの内容を聞いたときにあまり知らない人のアンケートが回ってきたら困るなぁと不安になった記憶があるので、1学期の前半頃のことだったと思います。(自信はありません。)

 

アンケートにはクラスの誰か一人の名前が書かれていて、質問内容は、

「この人を動物にたとえるなら何ですか?その理由も書いてください。」

というものでした。私が誰のことをなんて書いたのかは記憶があいまいです。ただ、幸いにしてアンケートにある名前を見て安堵したのは憶えています。全く知らない人ではなかったはず。一方で、クラスにまだよく知らない相手がいるのに、無茶なアンケートをさせるなあとも思いました。もしかしたら、書かれた内容に怒り出す人がいるかも知れないとも考えましたから。

 

私は、クラスでは地味でネクラに思われているという自己認識だったので、もし書かれてるとしたら何だろうかと、幾つかの予想を立てていました。

 

アンケートを回収してから結果発表です。40人を超える生徒がいるので、一人一人の結果を淡々と発表していきます。「なるほど。」とか「当たってる~。」の反応が中心で、たまに「え~?」や「そうかなあ?」と意表を突かれることくらいはあっても、比較的、和やか、穏やかで、心配したようなハプニングも無く、どちらかと言えば笑い声の方が多い感じでした。

 

さて、私の番が来て、挙げられた動物は「コウモリ」。理由は「何を考えているのかよくわからない」といった感じだったと思います。

私は内心(理由も含めて的中した)と、してやったりでした。お互いそれ程知り合えてない相手もいるので、その回答は十分予想できたし、納得だったのです。

 

ただ、一般にコウモリは、吸血、洞窟に潜む、夜活動する等の暗いイメージが強いようでした。また、イソップ童話の『鳥と獣とコウモリ』の話も『卑怯なコウモリ』との別名があるように、狡賢いイメージもあるようです。ウィキペディアでは、

「昔々、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていた。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です。」と言った。鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です。」と言った。

その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わったが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をしたコウモリは、鳥からも獣からも嫌われ仲間はずれにされてしまう。

双方から追いやられて居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった。」

と紹介されているお話。

 

でも、私の持つコウモリの印象は、負のイメージが強めだとは言え、さほど悪いものではありませんでした。この辺、手塚治虫のコミカルな漫画『ドン・ドラキュラ』が影響している気がします。不遇な境遇でも、精一杯生きているという感じです。イソップ童話の「鳥と獣とコウモリ」の話も、ひどいのはコウモリではなくて戦争という私なりの答えを持っていました。

 

 

※ 「鳥と獣とコウモリ」について、ウィキペディアでは秀逸な説明がされています。リンクを貼っておきます。

卑怯なコウモリ - Wikipedia

 

私としては「コウモリ」は納得だったのですが、「そのたとえはちょっと酷いのではないか」と思う人もいたようでした。それはそれで気にかけてくれているのだと感じて、うれしかったのを憶えています。

 

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少し話がそれますが、 THE BLUE HEARTSは名曲『リンダリンダ』で

「ドブネズミみたいに 美しくなりたい

 写真には写らない うつくしさがあるから」

 と、これまで誰も感じなかった価値観がドブネズミにあると歌い上げ、世に広く認知されました。初めてこの歌詞を聞いたとき、とても共感したのを覚えています。ドブネズミとコウモリに共通性を感じたからです。

 

また、後年、ジュゼッペ・トルナトーレ監督のイタリア映画『マレーナ』を観たときも、コウモリやドブネズミに似たものを感じました。モニカ・ベルッチ演じるマレーナが戦争に翻弄され、蔑視を浴びながらも懸命に生きる強かな姿には感銘を受けました。きれいごとですまない選択を強要されるのが戦争の一つの残酷さだと思います。

 

そんなこんなで、今でも、自分がコウモリにたとえられた事は、密かに幸運だったと思っているのです。

 

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<余談 二十世紀末に流行った動物占い

2000年頃に動物占いが流行しました。漫画家の玖保キリコさんのイラストも流行を後押ししていたと思います。その占いには残念ながらコウモリはありませんでした。そこでの結果は「ゾウ」でした。説明文には思い当たることも結構あったのですが、基本誉められてるようで気恥ずかしく、苦手です。

今も、当時と多少趣が違う感じですが、動物占いはネット上で続いているようです。でもそこにやはりコウモリは存在せず、ちょっと残念。

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tn16.記憶なんて不確かなくせに、驚くほど憶えてる。

今週のお題「わたしの自由研究」。これは断言できます「tn198403s 高校時代blog」自体が私の自由研究です。

 

そのサブタイトルがこれ。

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

 

平均週2回の更新ペースで、これまでに書いた記事が83です。一部にこじつけ的な記事もありますが、どれも高校時代の経験や記憶と関わらせて書いてきました。そこで気がついたことは、「人の記憶とは、自分で思っている以上に不確かではあるが、思っている以上に憶えていることは多い。」ということ。

 

ここで「覚えていること」という表現は正確ではないかも知れません。言い換えるなら、思い出すことがないままに沈殿している記憶とする方が良いかも。ひっそりと沈殿した記憶の地層に、何かの刺激で強い水流を起こせば、舞い上がる記憶はかなり多いという感じです。ブログを書いている途中で、そう言えばこんなこともあったなぁと、不意に思い出すことって多いです。

 

例えば、「映画10.映画観で1本観るのに必要な料金と得られたもの。」に書いたこの一文。

「席の窮屈さと作品がセットになって記憶されているものもあります。高校時代に限って言えば『U・ボート』が筆頭。席の狭さに潜水艦内の狭さが重なり、わずかな身動きで椅子がきしんだ音が、深海にある潜水艦のきしみのように感じられ、びくっとしたことも憶えています。」

 

ここでは「憶えています」と書いていますが、実は「U・ボート」の記事を書いているときに、思い出したとする方が正しいです。席の窮屈さは覚えていました。でも、記事を書いている途中で、足を組んだ際にギギッと鳴った乾いた音をリアルに思い出したのです。もっとも、それは脳内で勝手に作られた記憶の可能性もあります。でも、耳から入った音に身体がびくっと反応した瞬間のことが蘇りました。

 

通学時に鳴らされた車のクラクションの記事も、書いている内にどんどん当時の様子が思い出されて、やたらと長く詳しい記事になりました。

こうした例は他にもたくさんありました。

 

刑事ドラマなんかで、容疑者や参考人を質問攻めにして、何とか記憶を引き出そうとしてる内に「思い出したよ、刑事さん!」とかいうシーン、よくありますよね。あれ、このブログを書くまで、(そんなに、都合よく思い出せるものじゃないだろう?)とあまり信じてませんでした。

 

でも、小さな記憶を丁寧に思い出すことを繰り返している内、不意にタイムスリップして、まるで今その場に居るんじゃないかと思うくらい、いろんな記憶が鮮明になる瞬間があります。よく似た画像が並びそれを立体視するときのように、ピタッと焦点が合う感じ。ただ問題なのは、だからといってその記憶が正しいかどうかは別ということ。無意識の内に、記憶を勝手に作ってしまった上、さも、それが当然の事実のように感じてしまうのです。

 

音楽5.『ルビーの指環』(寺尾聰)」の記事は、まさにそれ。

「歌い始め「くもり硝子の向こうは 風の街」のところ、ずっと「くもり硝子の向こうは 雨の街」と思い込んでいました。頭の中にはずっと、雨の湿気で硝子が結露して曇っていたというイメージだったのです。そのため「枯葉ひとつの重さもない命」は、ぬれ落ち葉で、街ゆく人に踏みつけられてるイメージでした。」

どこで記憶が入れ違ったのかはわかりません。でも、歌詞を改めて見ると、確かに昔は「風の街」と記憶していたように思う?思えてくる?のです。

 

裁判のシーンで「異議あり!それは、誘導尋問です。」なんてありますよね。誘導尋問くらいで、ころころ変わるような記憶なんて、最初から証拠にならないだろう、と思ってましたが、どこで記憶がすり替わるか危ういものだと認識を改めました。

 

もし、このブログを書き始める前に何かの裁判で証人となっていたら、検事に

「あなた、高校時代から『ルビーの指環』、何度も歌っていたそうですね?今でも歌えますか?」

と聞かれた時に、平然と、いや、むしろ得意気に

「く~もっり硝子の向こうは 雨の街~♪」

歌ったはずです。そして、

「あなたは、先程、高校時代の記憶は思っている以上に憶えていることは多いと、おっしゃった。確かに記憶していることは多いかも知れないですが、その記憶が正確だと言えますか?本当の歌詞は、くもりガラスの向こうは、風の街なんです。あなたは、天気予報の曇りのち雨という言葉を聞いただけで、くもりガラスの向こうは雨だと思い込むような、周囲に流れされやすい記憶しか持ち合わせていないんじゃないですか。」

そう言い放った後、踵を返し、

「裁判長、私はこの人の話は証言にならないと判断します。よって、直ちに証人席からの退席を求めます。」

と、詰め寄られ、すごすごとその場を去るのでしょう。

「そうか、天気予報の「くもりのち雨」で私の記憶がすり替わってしまったんだなぁ。」

とでも、呟きながら。

 

そう思うと誘導尋問、恐いです。ひっかからずに生きていくのは大変そうです。

でもね、そう思えたのも、このブログで私の記憶を検証したから。

「古きを温めて過ちを知る」(ふるきをあたためて あやまちをしる)

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それだけでも、このブログには意味がある。

そんな「わたしの自由研究」、中間報告でした。