tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn10.「人間は考える葦である」(パスカル)を考える

 「人間は考える葦である」(パスカル

高校時代に初めてこの言葉を知った時、人間なんて河原に生える葦と大した違いのない生き物という意味だと思いました。所詮、人間も自然界に生まれた生命体の一つでしかなく、自然を壊してもいいなんて思い上がりだ、そんな感じで軽く流していたのです。

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それが、自転車を走らせながら土手下の川縁に生える草を見ていた時、不意に、でも何故ただの「葦」ではなく、「考える葦」としたのだろう?と疑問が湧いたのです。何となく、「考える」は、人間の特徴を示しているのだろうなとは思いましたが、人間と動物の違いを「道具」「言葉」「文字」「火」の使用や「宗教」の信仰等とするのとは、一線を画した表現に思えて、引っかかり続けることになりました。

 

動物が、木の枝を「道具」にしてエサをとることは小学校の教科書にもあった話。イルカなどの仲間同士で通じる鳴き声は「言葉」に通じるものがあります。エサのありかや、縄張りを伝える虫や動物のマーキングは「文字」とも言えそうです。だから「考える」としたのかなとも思ったのですが、そもそも考えることも、動物はやっているはずです。さすがに火を使うことや信仰は難しいとは思いますが、「人間は火を使う葦」「人間は信仰を持つ葦」とするのも変な話で、それなら葦ではなく動物とするところでしょう。

 

そんな風に考えていく内、「考える」より先に、「葦」とした理由を結論付けました。即ち、人間自体はとるに足らないほどの存在ということを強調したかったから「葦」にしたのだろうと決め込んだのです。

 

となると、何故「考える」葦なのか?

と、再び考え込んだ時に、はっとしました。

こんな風に、何度も何度も考えることを指しているのではないかーー。

「考える」は、考え続けるということではないかーー。

 

当時は、その答えは知りませんし、確かめる手段もありませんでした。

でも、もし、私がこの言葉を残すなら、この仕掛けをきっとそのままに残しておこうと考えるはず。そして考えを巡らせるうちに、この答えに行き着くーー。つまり 「人間は考える葦である」とは「人間は常に考え続けるものであるが、所詮、とるに足らないほどの存在でしかない」と人間の傲慢さを戒める言葉として解釈したのです。高校時代は、これが自分なりの結論となって、思考が止まってしまいました。

 

この言葉が再び俎上に載ったのは大学時代です。何かの講義で「人間は意思決定ができることを知らせることで初めて人間として認められる」といった話を聞いてからです。社会学関係の講義だったように思います。

 

講義中でしたが、思わず「あ~~~っ!!」と叫んでしまいそうな衝撃が全身を走りました。講義の内容は、映画『エレファントマン』で感じた「人間て何だろう?」という疑問とぴたり符合したのです。(詳細は「映画4.“ I am a human being !”」)全身に極度の変形があり知能を持たないと思われた主人公メリックが、研究対象として病院に引き取られますが、知能と誠実さを持ち合わせていると医師が知った時、はじめて人間として向き合ってもらえたという件は、まさにそれです。


そして、次の瞬間に「人間とは何か」と「人間は考える葦である」が繋がり、もう一度「あ~~~っ!」と叫びそうになりました。人間として認められるのは、考え、意思決定をし、それを伝える者。であるなら…「考えなければただの葦、考えることで初めて人間として存在できる」ということではないかーー。そう思ったのです。そして、考え着いた私なりの答えが「人間の本質は考えることである」でした。ある意味「人間であるなら考えろ」と言い換えられるかも知れません。

 

付け加えておきますが、ここでの「考えること」とは、高度な問題を解くとか、正解を導けとか、わからなければ意味がないとか、そういうことではありません。単純に、自分はこうしたい、こんな風に考えているとかも含まれるべきだと思います。乳児が母乳を求めて手を伸ばすことや、仕事中に眠気に襲われつつも寝ちゃいけないと思うことも考える姿ととらえます。「それは本能であって思考ではない」という人もいるかと思いますが、私は「考えることは人間の本能」と言う立場です。俗に食欲、性欲、睡眠欲を本能からくる三大欲求と言われるようですが、その本能は人間でなくとも持っているもの。そうした欲求についても考えて、人間らしい文化にしていくことも人間の本能だと考えます。

 

お腹が空いたというときに、店頭に置かれた野菜を手に取って、いきなり丸かじりをしないのは、本能について理解し、抑制をするべきと思考しているから。お腹が空いていても、時間をかけて美味しく調理しようとするのも同じ。食べる時でさえ、衛生や安全を考えて食器を使います。気づかぬ内に、人間は一体どれだけの思考を重ねて食事をしているか考えると途方にくれそうなくらいです。

 

食卓に、調理されていない食材がそのまま置かれている状態で、食欲に任せてそのまま口にすることを選択しない人間。それは、母乳を求めて手を伸ばす乳児の頃から、食欲をどうやって満たすと良いかの思考の延長線上にあるものだと思うのです。願い敵わず哺乳瓶が与えられたときには、それを受け入れることで、容器のあることを学ぶ。離乳食がスプーンと一緒に出されて、食器を知る。もちろん、何度も失敗あるでしょうが、何度も失敗する中で考え、使い方を憶え、食事のマナーを身につけていく。まさに、飽くなき思考の連続ではないでしょうか。

 

人間は、生まれた時から人間ですが、思考と共に人間らしさを増していくと言えると思うのです。「人間は考える葦である」に対する私の解釈を「人間の本質は考えることである」、「人間であるなら考えろ」としたのは、そういう考えからです。もっとも、今後も折に触れ「人間は考える葦である」について考えていく内、別の解釈に行き着くかも知れません。大学で気づいた解釈も、働きだしてから、さらに広く深い解釈になっていったのですから。

 

 

ところで、インターネットが整備された現在、いろんなことが簡単に調べられるようになりました。「人間は考える葦である」で検索すると私のパソコンでは筆頭に『考(かんが)える葦(あし) パスカルの「パンセ」の中の言葉。「 人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である」として、人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したもの。』と表示されます。ちなみに検索にかかった時間は(0.48 秒)。

 

私の思考で4年程かかった結論が、パソコンを使えば、0.48 秒ですむのも、何だかなあ?とは思いますが、いいのです。パスカルによれば、人間は「考える葦」であって「検索する葦」ではありません。4年かかった自分は愚かかも知れませんが、少なくとも人間らしいことはしていたんじゃないかなと、パスカルの言葉に慰めてもらっています。

 

いつか、AIが本格的に人間の生活の中に定着するようになった頃、パスカルの言葉は意味のない言葉になってしまうのでしょうか。いやいや、このブログの冒頭に「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」と書いた通り、その時になっても人間は考え続けるのだろうし、生きる意味を感じる努力は惜しまないだろうと思います。しかし、もし、人間が考えることを放棄してしまったなら、AIは人間を葦として扱ってしまうのではないかーー?そんな疑問も頭をよぎるのです。

映画9.『U・ボート』(2)海の原風景と気まずさ

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 ※「映画8.『U・ボート』(1)潜水艦での戦闘の原風景」の続きです。

 

『U・ボート』では、海の様子も強烈な印象が残りました。他の映画でも海を写した印象的なシーンな数多くあります。『太陽がいっぱい』では、大海原で小舟に取り残されじりじりと日に焼けるシーン、『ジョーズ』で見た間近の水面や水しぶき、真夜中の海中水泳の恐さ、『タイタニック』での美しい夕焼けや、船を飲み込む海、等々。

 

でも、『U・ボート』の海は別格でした。荒れた海の波の高さや角度、跳ねるのではなく襲ってくる水しぶき、海面の色、等々。視点の低さも初めて観る感覚。また、海中に沈んだ潜水艦の内部で高い水圧が感じられる演出等々。

 

大げさな表現を許してもらうならば、他の映画は、どこかそのシーンのために作られた海の映像という感じがあるのですが、『U・ボート』は、実際の海の中で撮られたシーンという感じと言えるでしょうか。

例えば、実際の船で漁の様子を撮ったドキュメンタリー映像より、海が伝わった感があります。ドキュメンタリー映像は漁を撮影した映像に海が写り込んでいいるのに比べ、『U・ボート』は、海を撮影していたところに出演者や大小の道具が写り込んだ感じと言えるかも知れません。

また、『U・ボート』を観る前と観た後で、天気予報で波の高さ5mと聞いたときのイメージも違った気がします。観る前は2階建て程の波の絵だったのに対して、観た後では波の谷からきつい坂を見上げた高さ5mの峰という映像になりました。さらに、波の谷から持ち上げられて、今度は峰から5m下を見下ろす映像に変わります。体が大きく5m上下するのがイメージできる感じです。

 

荒れた海を知ることで、穏やかな海の安堵感というか、幸運感というか、それも増した気がします。「生きていて良かった」という感覚は、死に直面した人ほど実感がこもるらしいですが、それに似ているのかも知れません。『U・ボート』では死と隣り合わせになるシーンも多いので、そういう発想になりやすいかも。

 

ん~、ちょっとたとえが飛躍し過ぎたかな。

でも、後に同じウォルフガング・ペーターゼン監督の『パーフェクト ストーム』(ただし、海の映像はともかく作品としては今ひとつの感あり)に上書きされるまで長らく、海の原風景でした。否、上書きされたというより、補完されたという感じかな。  『U・ボート』の海も今なお健在というか、『パーフェクト ストーム』と記憶がごちゃごちゃになってる部分があるというか…。

 

 さて、潜水艦の戦闘や、海の風景で圧倒されるこの映画のラストも強烈です。期待を裏切られた、或いは、現実を見せつけられた感じもあって、その辺のとらえ方は、観る人の判断でしょう。しかし、きっちりと大戦の中でドイツ軍のUボートが置かれた位置を冷静に映し出していることで、私のこの映画への評価は上がっています。今でも私の映画ベスト10からは外せません。

 

 

ところで、実はこの作品は、友人と一緒に行く約束をしていながら、うっかり約束を忘れてしまったという逸話があります。結局、日を改めて一緒に観に行きましたが、友人には何と思われたでしょうね。

 

当時、戦争に憧れていた訳ではなかったと思いたいですが、強さには憧れがありました。反戦映画と好戦映画の区別もないまま戦争映画はよく見ていました。戦艦・空母や戦闘機、軍の階級等の情報には興味が強かったです。どんな作戦や戦闘があったかなど幾つかの戦記物も読んでいました。きっと、友人にUボートがどんな潜水艦なのか、知っている限りの話もしたはず。私の映画への期待も散々語ったような気もします。

 

その時、おそらく「カッコイイ」という形容を深く考えることなく何度も使っていたと思います。戦記物に「戦争はカッコイイものなのか?」という問いかけを見かけた時、内心で「戦争はカッコイイとは思わないけど、強いのはカッコイイ。」と答えていたのも憶えています。

 

映画を観終えた後、友人とどんな話をしたのかよく覚えていません。「カッコイイ」と思った場面は確かにあったものの、作品を通じて単純に「カッコイイ」映画だと片づけるには無理があります。この映画は、むしろ「強い=カッコイイ」ではないことや、「強さ」にはいろんな見方があるのだと知る分岐点の一つになっていきます。

 

友人との約束を忘れてしまった気まずさは、ほとんど何も知らずU・ボートの強さに憧れていた気まずさを更に重くして心の奥底に沈ませ、浮上したのは自分の浅はかさだったのでした。

 

 

 

 ※「映画8.『U・ボート』(1)潜水艦での戦闘の原風景」も読む。

tn198403s.hatenablog.jp

 

映画8.『U・ボート』(1)潜水艦の戦闘の原風景

最近、二つの潜水艦の戦闘シーンを描いた作品を観ました。一つは漫画『特攻の島』(佐藤秀峰)、もう一つは漫画を原作に実写化した映画『空母いぶき』(ただし、映画より原作の方が圧倒的に深いと思います)。それぞれの作品には、登場人物の心に秘められた葛藤が描かれ、確かに見応えもあります。

 

しかし、二作品を観ながら、35年以上前の高校時代に観た『U・ボート』が思い起こされたのは、単なる偶然ではないように思います。それは『U・ボート』で描かれた潜水艦の戦闘シーンが二作品を凌駕する迫力やリアルさがあったからでしょう。というより、先の二作品が『U・ボート』を意識しつつ作られたという気もします。結果、あらためて『U・ボート』の強烈な印象が蘇ったのです。

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高校生の時点で、U・ボートの存在は知っていました。第二次大戦中に、ドイツが潜水艦の威力を大いに示した一方で、その戦闘は過酷を極めたという話も本で読んだことがありました。当時の私は、過酷でありながらも、敵国に恐れられたU・ボートの強さとはどういうものであったのか?そんな感じで、この映画には、興味津々だったのです。

 

映画は冒頭から、そんなワクワク気分の少年の気持ちを高めてくれます。Uボートの乗組員は概して若い上、そこに若い報道班の主人公も初めて乗り組むのです。その主人公の気持ちと自分の気持ちが重なるような感覚があったのも覚えています。戦闘までの航海の途中では、まさに海の男と呼べそうな乗組員同士で盛り上がることも。戦時中に、敵国ばかりか自国さえもからかうような言動、この辺りは、旧日本海軍では考えられない軽さ、気さくさです。テスト潜行でこそ、深海の怖さや緊迫感もありましたが、それを乗り越えたことで、まるで自分たちの乗るUボートは無敵であるかのような不遜さも感じました。

 

その後、物語は過酷な戦闘に突入します。ホラー映画とは質の違う思わぬ恐怖の連続です。海に深く潜っているからこその恐怖感を見事に演出しています。潜水艦内の狭さ、閉塞感、深く潜る怖さ、目に見えない敵から伝わるスクリューやソナーの音、映画を観た人なら頭にこびりついてるであろう、いつどこから襲われるのか予測がつかない恐ろしさ、何より逃げ場がどこにもないことが、映画館の席の窮屈さと重なるのです。息ができないような錯覚になります。そこで繰り広げられる重苦しさは、頭を働かせれば想像ができる範囲を軽く超えていました。潜水艦にまったくの無知であることに気づかされるのです。

 

最初に感じていた不遜さは掻き消されました。また、その不遜さゆえに予測していた油断は禁物という警戒感も吹き飛ばされました。潜水艦の過酷さを嫌というほど味合わされます。

 

そして、窮地を切り抜け、浮上。思わず、拳を握りしめてガッツポーズをしていました。その痛快さ、この上なしという感じです。この時は、戦闘の結果云々よりも生還できたことへの共感、それに尽きます。嵐で荒れ狂う海にさえ、命あることを感謝したくなります。

 

「なるほど、U・ボート(潜水艦)の過酷さとはこういうものなのか。」と脳内に刷り込まれた感じ。迫りくる身の危険、そして命が助かった喜び、そんなもろもろがぎっしり詰まって、今でも潜水艦の戦闘の原風景となっているのです。

 

※「映画9.『U・ボート』(2)海の原風景と気まずさ」に続く。

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